8月12日付でWANに寄稿された石上卯乃さんのエッセイ「トランスジェンダーを排除しているわけではない」を拝読しました。一読し「やっぱりトランスジェンダーを排除しているのでは?」と思いましたが、同時にトランスジェンダー とフェミニズムをめぐる議論について不慣れな人には文脈のわかりにくい箇所が多いとも感じました。
そこで、先日の寄稿について私なりの解説をつけてみます。

トランスジェンダーを排除しているわけではない 石上卯乃

皆様、はじめまして。私がなぜこの文章を書いているのかということから、聞いていただけないでしょうか。私たちは、女性の権利や安全に関心があります。フェミニストです。そしてすべての差別がなくなり、みんなが安心して暮らしていける社会を求めています。

書き出し、いい感じですね。私もトランス男性のフェミニストです。女性の権利や安全を守り、すべての差別を無くしていこうという方向性に私も賛成です。

ところが、私たちはなぜか、TERF(Trans Exclusionary Radical Feminist トランス排除的ラディカル・フェミニスト) と呼ばれるようになってしまいました。TERFという言葉を少し調べれば、殺せ、犯せ、殴れといった言葉と一緒に使われるので、とても怖くなってしまっています。

おっと不穏な雰囲気になってきました。TERFのTEはトランス排除という意味です。「女性の権利や安全に関心があるフェミニスト」であるだけでなく、トランス排除している人が一般にこう呼ばれます。なお暴言はどなたに対しても許容されるものではありませんね。

そしてなぜ、そう呼ばれるのかが、全く分かりません。私たちは、トランスジェンダーの人たちとも、平和的に共存したいと思っています。ただほんの少しの場所、トイレや風呂、更衣室、レイプクライシスセンターなどのシェルターでは、安心して過ごせるように、安心・安全という問題意識を理解してもらい、どうすればいいのかを一緒に考えて欲しいと言っていただけなのです。

ひとつ助言すれば、トイレ・更衣室・レイプクライシスセンターと風呂の議論は一緒にしないようにトランスたちは議論しています。前者を全裸で使う人はいません。風呂は災害時でもなければ自宅でひとりで使えます(公衆浴場を手術なしで使わせろとトランス活動家が主張しているというデマ・藁人形論法については「松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問」をご覧ください)。トイレ・更衣室・レイプクライシスセンターを他人と一緒に使うことを制限された場合、その人の生活や生存に多大な不利益がでることは容易に想像されます。このようなトランスたちの実情に想像をはせた上での「議論」が(トランスを含めた)女性の安全と、トランスの尊厳の両方を守るために重要でしょう。
なお、海外では性暴力被害者支援の場でトランス女性の受け入れはこれまでにも行われており、なんの問題もないと現場のスタッフに指摘されています。「安全上の懸念」を口実にトランス女性は排斥されがちですが、各国で性暴力やDVに取り組む支援者の多くは異なる考え方をしていることは補足しておきます。懸念の強調がトランスのサバイバーをさらに窮地においこむ危険性についても指摘しておきます。


私は、自分はジェンダー・クリティカルだと思っています。ジェンダー(社会的・文化的につくられた性役割)は、女性も男性もトランスジェンダーも、すべての人間を苦しめる、不自由で非合理的で非人間的な枷であると考え、ジェンダーが人間に及ぼしているマイナスの影響を批判しています。こうしたジェンダーの在り方への批判は、世界中の女性解放運動の長い伝統における中心的な思想であると考えています。そして、ジェンダー・アイデンティティ(性自認)こそ性別を決定づける、という近年広がっている見解・運動に対しても、その影響に注視し、必要があれば批判をしていきます。

ジェンダー・クリティカルという言葉、みなさん聞いたことがありますか?ジェンダーという考え方自体がおかしくて問題なのは生物学的性にもとづく差別なのだとする考え方です。ジェンダーの廃止が重要と主張する人もいます。ただ実際には私たちは性器を露出して暮らしていませんし、そのような社会の到来をジェンダー・クリティカルなみなさんも望んでいないでしょう。「ジェンダー・アイデンティティこそが性別を決定づける」ことの影響に注視し批判もすると書かれていますが、実際にジェンダークリティカルの人たちはトランス男性に対して「あなたのセックスは女性なんだから、あなたは本当は女性だ」、トランス女性に対して「あなたのセックスは男性なんだから、あなたは本当は男性だ」と述べています。そのような姿勢こそが、トランスを否定する考え方、トランス排除的であると批判されているのではないでしょうか(ジェンダー・クリティカルについてはこちらの動画も素晴らしいので是非ごらんください)。

近年、ジェンダーをめぐる議論はとても窮屈になっています。2020年6月に、ハリー・ポッターの作者であるJ.K.ローリング氏が、「生理のある人」という言葉の代わりに、「女性」という言葉を使うべきだと主張しました。そのことには賛否両論があって構わないはずです。ところが、彼女はTERF(ターフ)と呼ばれて、犯せとか殺せとか、作品を全部燃やせであるとか、ナチであるとかとまで言われて、激しいネットでの暴力を受けています(子ども向けニュースサイトThe  Dayは、さすがに彼女への行き過ぎた非難を、後に謝罪しました)。

暴言は私も批判します。ところでJKローリング氏の発言の元ネタを確認しましたか。covid-19以降の世界でどうやって脆弱な立場に置かれた人たちの健康を守るのかという記事の中に「少女、女性、生理のある人」と書かれた一節があったんです。これに対してJKローリングは「“生理がある人々”。昔はこの人たちを指す言葉があったはず。誰か教えて。ウンベンだっけ?ウィンパンド?ウーマッド?」とツイートしました。「生理のある人」はトランス男性やノンバイナリーなど、女性自認でなく生理のある人の健康を守るために使われることのある言葉です。トランス男性は婦人科を受診することに抵抗を感じやすく、子宮・卵巣系の疾患が悪化しやすい健康上のハイリスク集団です。その人たちへの配慮表現をわざわざ「女でええやん」ばりに揶揄したら批判されても仕方がないでしょう。JKローリングは過去にもトランス差別的表現で炎上しており、今回も「知らないで発言した」わけでもなさそうです。

Sex is real、生物学的性差は存在するし、生理のある人を女性と呼べないのはおかしい。ローリング氏がその考えを表明しただけで、彼女は仕事をキャンセルされ、彼女の物語を演じた俳優たちから見当違いの言葉で批判され、本当にたくさんの誹謗中傷の言葉や画像を送られています。彼女が説明のために書いたブログ記事も、自分の被害者性を表に出して同情を買う作戦だ、と罵られています。彼女への罵り言葉の代表がTERFです。TERFと認定したら、何をしてもいいかのようです。私たちは、ローリング氏へのこうした攻撃は不当であり不正義であると考えますし、自由な言論の空間が必要だと考えます。

「生理のある人」のうち女性自認の人を女性と呼ぶことをトランスたちは批判していません。女性でない「生理のある人」を女性と呼ぶことを批判しています。「トランス男性を女性と呼んでもいいじゃないか」という「自由な言論の空間」は、ヘイトスピーチを表現の自由と呼ぶ考え方と大差ありません。

以降の文章の検証は、ここまで書いてきた論点の繰り返しになるので省略します。

最後に、こちらの文章を載せてしまったWANの「プラットフォームとしてのあり方」について一言批判をさせてください。ここまでの議論、とてもハイコンテクスト(前提が入り組んでいてわかりにくい)と読者のみなさんは思いませんでしたか?フェミニストの研究者の多くも「ジェンダークリティカル」は聞いたことがなかったと思います。JKローリングの話題も、知らなければ「迫害されてかわいそう。窮屈だなぁ」と思ったことでしょう。なるほどトランスの話題は厄介で「女性」の権利としばしば相反するのだ、という印象を持ったと思います。それが寄稿した人の狙いだと私は思います。

トランスジェンダーをめぐっては、当事者の生活実態にもとづかない憶測や事実誤認が起きやすいことを覚えておいてください。デマを意図的に流す人たちが残念ながら一定数存在します。そのような人たちの投稿によって「普通に生活している」「普通に性犯罪などを怖いと感じる」シスジェンダーの女性たちは、本心で怖いと思って、あるいは怒りを覚えて、その情報を拡散します。「議論の場」によって脆弱なコミュニティがさらに周縁化されることのないよう、言論空間をどのように設定し、プラットフォームを維持するのか内部でぜひ検証いただくようお願いします。

 なお、トランス男性である私が長文を寄稿したことについて「マンスプレイニング」と指摘する人がいるかもしれません。「マンスプレイニング」という言葉を提唱したレベッカ・ソルニットもまたフェミニストを名乗りながらトランスコミュニティを攻撃する人、すなわちTERFを批判していることを最後に言い添えておきます。