九津見房子の評伝です。九津見房子(1890~1980)は初の女性社会主義団体赤瀾会(せきらんかい)を創設した一人です。赤瀾会は今から約100年前、女は政治参加ができない状況下で作られたものです。
 九津見房子は戦前多くの労働運動、社会運動、婦人運動に関わり、治安維持法違反の初の女性検挙者であり、ゾルゲ事件に連座した行動の人です。しかし、同時代の伊藤野枝や山川菊栄に比べ、現在では顧みられることが少なく、また文を残していないので忘れ去られようとしているのではないかと、私は残念に思い書いたものです。
 九津見房子の出身地岡山に住む私は、県北の勝山にある墓を訪ね、また当時の新聞史料を探し、あるいは同時代の人の著作を読み、全体像を描き出しました。  牧瀬菊枝聞書き『九津見房子の暦』と長女大竹一燈子の『母と私』を主要参考文献にし、会話を引用しているので「読み易い」といわれています。
 大正14年(1925)に『産児調節評論』に「社会制度の欠落により招来した処の貧困は、制度の改革によってのみ絶滅しうる」、BC(バースコントロール)問題は「優生学上又は婦人解放問題の上から、この問題のもつ意義は深く拡い新社会出現後も残るべき」と書いていて、その先見性に驚かされました。
 大正15年(1926)に労働組合法、労働争議調停法、暴威取締法の三法案制定反対のデモでは検束される際「余りですわ、私が何を致しました」と叫んだと新聞記事にあります。淑やかで上品で聡明な女性でした。
 運動のことだけでなく、生活や人間関係も書いています。女たちは労働運動で闘うも、「当時の女は活動するとか、名をあげるとかいうのでなく、みんな男をささえる役割に甘んじていたわけです」と九津見。甘んじたことを理解されることは当時はもちろん、今もないのではないでしょうか。
 戦前、共産党員検挙で逮捕されますが、当時の新聞によれば党加入手続きがまだで党員ではなかったとのこと。いったい女党員がいたのだろうか、女は党員になれなかったのではと思いました。
 ゾルゲ事件に連座し敗戦まで獄中にあり、瀕死の中を生き延びます。しかし戦後、転向した夫、三田村四郎と暮らすことで、九津見房子の評価は下がり、皆に貶められます。夫の考えと妻の考えは同じであるはずと考えられていました。私は独立した考えをもつ二人と考えます。別姓別墓でした。
 九津見房子は主義のみに生きたのではなく、信じた道を愚直に歩んだと思います。スパイの汚名を着せられたまま眠る墓に先日もお参りしました。本書を読みその懸命に生きた生涯を知ってほしいと願っています。

◆書誌データ
書名 :九津見房子、声だけを残し
著者名:斎藤恵子
出版社:みすず書房
刊行日:2020年8月18日
定価 :3960円(税込)