コロナ渦中、望まないマスクが送られてきて、国という仕組みの中にいることを強く意識させられた。そして国を動かすひとびとが家父長制や男尊女卑を温存してきていることを痛切に感じ、「乳房のくにで」という小説が生まれた。
日本社会において、女性は学生時代、就職、結婚、までは、昔に比べれば露骨な差別や抑圧は減ってきたように、表面的には見える。もちろん環境にもよるし、人それぞれであるのは前提だ。本人が男性中心社会の視線を内面化していて気づかない、という場合もある。 ただ、ひとたび、「母親」というものになったとき、ものすごい圧力が各方面からやってくることは否めない。それまで積み上げてきたことを物理的に諦めざるを得ないことが生じる。理不尽を目の当たりにすることが多い。また、信じられないほど保守的な母親像、もっと言えば、聖母像を求められる場面に遭遇する。もちろん、父親の姿は変わってきていて育児参加も増えているが、それでも、母親への世間の眼差しは、おしなべてとても厳しい。 母親を支える制度もまだまだで、根本的な部分で、母親を追い込む。
家父長制の根強い社会では、どんな女性も、ちゃんと生み育てる、ということで判断され、価値を決められてしまう。優れたアスリートが「ママでも金」と述べれば絶賛され、バリバリのキャリアウーマンが、子どもを産むか産まないかでとやかく言われる。それだけでなく、世間はあらゆる女性に母親的なケアーを望む。男性を甘えさせ、励ます役割を求めてくる。面倒見のいい女性を職場のお母さんなどと呼び、テレビドラマでは、割烹居酒屋で黙って男性の話を聞いて好きなつまみを出してくれるおかみが頻出する。
「乳房のくにで」には、こんないまどき時代錯誤な、という政治家の家庭が出てくる。これは、この国の為政者が目指す、復古的な価値観への回帰を象徴し、そのことが母親という存在に大きな負担を強いるものであることを描いている。
母乳を切り口にした物語において、母乳が出る人、出ない人、双方が家父長制の被害者で、女性同士の分断や対立は、男尊女卑のいまだ続く国家に都合よく利用される。母性や女性らしさが搾取される。
この小説は、乳離れできないこの国の過去、現在、近未来を描いている。