2020年の春、新型コロナ関連のニュース記事を書いていたとき、次のデータを見つけました。「ドイツの特別養護老人ホーム居住者の4分の1と、すべての入院患者の3分の1が栄養不足」
いや、そりゃそうでしょ、あのごはんなら、と、自分の入院経験を思い出して思わずにやけてしまいました。私はドイツで3回入院したことがあります。2回は帝王切開、あとは甲状腺の摘出です。帝王切開は2003年と2005年のことです。
ここ10数年でだいぶマシになったとはいえ、ドイツはとくにグルメ文化が発達した国ではないのは周知のとおりです。伝統的ドイツ料理はおいしいですよ。でも、他国の食文化に対する情熱というか、新しい食材への熱意というか、そしてそれらを組み合わせるセンスというか、そういうものがお隣フランスやわれらが日本と比べて、圧倒的に欠けています。
私が病院で産後に供された食事はたいてい、ぼそぼその黒パンスライス1枚にハムかチーズ1枚にトマトかきゅうりのスライス1切れ(なぜか何でも1枚)とか、あるいは甘い雑穀粥1杯とか。あのね、産褥期の女性は栄養をつけなきゃいけないんじゃないの? これじゃ乳も出ないよ? ていうか、これじゃ病人も力が出ないでしょ。日本の男友達が、奥さんの産後の病院食の写真を見せてくれましたが(「あいつ食欲なかったから俺が全部食っちゃった。うまかった〜」)、あれはレストランか何かの間違いではないのでしょうか。しかも、ドイツの一般的なレストランよりずっと豪華!
私は第一子出産前後に合計3週間も入院せねばならず、かなり懲りていたため、二人目の時は何が何でも早く家に帰ろうと意気込んでいました。自然分娩を希望した二度目の出産でしたが、何時間も出てこられず胎児の心拍数が下がってしまったため、結局緊急帝王切開となりました。翌日、全身麻酔の影響で体はまだぐったりしていましたが、家に帰りたい一心で、目覚めるとすぐに一人でトイレに立ち、自主リハビリを始めたのでした。同室の女性は、半ば賞賛するような、半ば呆れたような視線を私に向けました。
昼夜を問わず看護婦たちは、生まれたばかりの息子をしょっちゅう私の部屋に連れてきました。お腹が空いている、と言って、私の上に投げるように置き去りにしていくのです。帝王切開の場合、すぐには母乳が出ないということくらい知っているはずなのですが……。
ドイツの医療関係者さんたちは東欧出身者が圧倒的に多いです。そして、意外と迷信深い。さらに、これは医療関係者に限ったことではありませんが、思い込みが激しくてみんな言うことがばらばら、一貫性がない。息子は涙腺がつまっていて、目やにが出やすかったのですが、看護婦たちはカモミール茶で目を洗おうとするだろうから、そうさせないように気をつけて、と医師に忠告されました。気をつけてって言われても……。病院内で方針を統一してよって感じです。
産科棟にはトルコ人も多く、給湯室に行くと、「カモミール茶」のポットには“Kamillentee”というドイツ語の札の横に“Papatya çayı”とトルコ語のサインも貼ってありました。ほかにもドイツに古くからある迷信で、空気の流れに当たると病気になる、というのがあります。なので、換気のために病室の窓を開けておくとすぐに閉められてしまいます。
三日目の朝食前、看護婦がもろもろのチェックをし、にこりと微笑んで「すごい回復力ですね、もういつでも退院できますよ」と私に言いました。
「うれしい、じゃあもう今日にでも帰れるんですね!」
言葉とは裏腹に、看護婦は首を横に降りました。
「息子さんがね……」
息子の血糖値は下がり続け、現段階では帰せる状態ではない、と担当医が言っているというのです。
乳が足りないのだ、と、とっさに私は思いました。

その夜また、息子は、弱った子猫のような声を出し、乳首を口から離してしまいました。乳が出ていないのかもしれないと思い、息子を抱いたまま、廊下にすべり出ました。暗い廊下の、うす緑色に照らされた壁に、ところどころキリンやクマのイラストの入った額が掛けられているのが、かえって不気味でした。廊下の奥でひときわ明るい光を放つ部屋を目指して、ひっそりした深夜の病棟をひたひたと突き進みました。
控え室では、五、六人の看護婦が、椅子取りゲームのように椅子を輪に並べて、おしゃべりをしていました。浴衣のような綿のだらりとした寝巻きを着て、気の触れたようなみだれ髪で入り口に佇む私を認めると、看護婦たちはぱたりと話をやめ、一斉に怪訝そうな眼差しを向けました。
粉ミルクをください、と私はおそるおそる言ってみました。
「駄目よ、あんなものは。ぜ~ったい駄目」と、赤い縮れ毛の五十過ぎの看護婦が、甲高い声で言いました。あんな人工的なもの。将来子どもが太るわよ。大食いになるのよ。母乳みたいに消化によくないからね、夜中に目が覚めるのよ、困るのはあなたよ。
そう言って、小さな哺乳瓶を差し出しました。これならあげられるけど。
砂糖水。
カナダとドイツで暮らしてみて、ひっかかるのはいつもこういうところです。違いを一言で、と訊かれるたびに私が答えるのは、「北米はチョイスのある社会」ということ。たとえば育児にしても、「母乳にこしたことはないけど、無理なら気にしないで、他でも大丈夫」というのが根本の考えなんですよね、北米は。他方ドイツは、「これ」という個人の正解を他人に押し付けたがる人が多いように思います。
ちなみに、当時の夫もやたらと粉ミルクを敵視していましたが、その彼が実は1滴も母乳を飲んだことがないことが判明して(本人も知らなかった)、なんと胸がスカッとしたことか! 彼は67年生まれですが、当時のドイツでは日本と同様「アメリカを見習え」の傾向が強く、アメリカから入ってきた粉ミルクは母乳よりも良いものと考えられていたため、義母はわざわざ母乳の分泌を抑えるホルモン注射を打って、粉ミルクで育てたそうです。
さて、その翌日から私は病院のポンプ室に通いはじめました。
ポンプ室には搾乳機が数台用意してあります。私は吸引力を最強にして、乳房が、まるで先細りの釣鐘のように変形するほど吸い込まれるのを、痛みをこらえて眺めたものです。それでも授乳を終えたばかりだと、両の乳房を合わせても120ml程度にしかなりません。目の前では、大柄でふくよかなトルコ人女性が乳を搾っています。隣人と楽しそうにおしゃべりしながら、シーッパ、シーッパと、搾っています。傍らにはすでになみなみと乳をたたえたアヴェーダ社製の哺乳瓶の大瓶が二本。空いた搾乳機のまわりのテーブルを消毒液で拭いて回っていた看護婦が、私の乳をチラリと盗み見ます。
突然、むらむらと腹が立ってきました。母乳育児の本を読めば、母乳分泌量に乳房の大きさは関係ない、と書いてあります。日本の母乳マッサージ教室では、満足に乳が出ないのは母親の努力が足りないからだとでも言わんばかりに、気絶するほど痛いマッサージを施されるという話も聞きます。でも、こんな、目の前で、まるで汗でもかくように気持ちよさそうに哺乳瓶に白い液体を流し込む巨大な乳房を目の当たりにして、どう考えても、この手術あがりのBカップの貧乳が、目の前の青筋だったHカップの巨乳に超える量をプロデュースできるとは思えませんでした。
出ないもんは出ないんだよ。
翌朝私の病室を訪れた看護婦は、初めて見る顔でした。どことなくアジア風の顔立ちで、中央アジアかどこかの出身でしょうか。小柄で、一つに束ねた漆黒のストレートヘアに、うっすらと緑がかった瞳が印象的でした。まだ20代半ばだったと思います。カトリック系のこの病院で、彼女はシスター・ダニエラと呼ばれていました。
「おかげん良さそうですね」と、血圧測定器をたたみながら、シスター・ダニエラは笑顔で言ました。
「ええ、私はいいんですが、息子が」そう言って、事情を話しました。
「帝王切開なので、あたりまえですよ、すぐにたっぷり母乳がでないのは。初乳はあげたんですよね。なら、十分です」
「でも、砂糖水しかもらえないんです」
「私から言っておきますよ」そう言ってシスター・ダニエラは病室を出ると、午前中の回診が終わるころに、哺乳瓶入りミルクを一本、持ってきてくれました。
しかし、彼女のシフト外ではまた同じことでした。
「シスター・ダニエラ!」翌日の午後、彼女の姿を廊下の奥に認めると、私は彼女を呼び止めました。「ほかの看護婦が、ミルクをくれないんです」
シスター・ダニエラはうつむいてため息をつきました。「ちゃんと言っておいたのに」
息子の状態はちっとも良くなりません。
「私がシフトからあがるとき、もう一本ミルクを用意しておきます」とシスター・ダニエラ。「でも、作り置きは良くないので、それ以上はあげられないのです」
シスター・ダニエラと私の二人三脚は、次の日も、その次の日も続きました。
そんなこんなで翌週、さわやかな秋晴れの日、なんとか退院の日を迎えることができました。帰り際、控え室を訪ね、シスター・ダニエラに泣きながら、あなたの患者で幸せでした、と、ドラマのような臭いセリフを捧げました。約1週間粗食に耐え、すべての栄養素を乳に搾り出したあと、私が楽しみにしていたのはもちろん、やっと家で食べられるごはんです。
家では当時の義母が長男の面倒を見てくれていました。次男と一緒に凱旋しての最初の食事は……特に用意されておらず。異様に塩からい、前夜の残り物のジャガイモとニンジンの茹でたのをいただきました。
ドイツの敗戦を経験した元義母はたいへんな倹約家です。
いや、別に鯛の尾頭付きを出せとはいいませんが……。
せめて、旬のアンズ茸のソテーでも食べたかったなあ。
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