
教育は平等、女が大学に行くのはあたりまえ、誰もがそう思っているでしょう。でも、少し前までは女が大学に進むのは当たり前ではなかったのです。戦争が終わるまで、日本の多くの帝国大学(以下は帝国大、帝大は省いて大学とします)は、女子を入学させないというひどい女性差別をしていました。75年前まで、つまり、今93歳より上の人は、どんなに頭が良くてどんなに勉強したくても東大や京大には試験も受けられなかったのです。戦前の大学制度では大学というのは、東大・京大・阪大・九大など国内に7校、植民地に創設した京城大と台北大の2校、計9校でした。早稲田大学とか、日本女子大学とか「大学」のつく学校はありましたが、帝国大学令でいう大学とは別でした。
帝大の中で、東北大は女子の入学を認めていたユニークな大学でした。わたしがたびたびこの欄でも紹介する敬愛する寿岳章子さん(1924-2005)は、京都に生まれて京都大学の近くに育ったのに、その試験も受けられなくて、東北大学に進みました。
どうして旧帝大に女子は入れなかったのでしょうか?
明治19年に施行され、大学のあれこれを決めた「帝国大学令」に女子は拒むとは書いてありませんでした。どこにも入学資格を男子に限るという条文はなかったのです。女子が帝大に入学するなどということは予想もしないことだったために、わざわざ性別資格は設けられなかったのだそうです。
明治40(1907)年に創立された東北大学の初代総長沢柳政太郎は、大学令に入学資格が限られていないというところに目をつけて、大正2年(1913)年、理学部で女子に門戸を開きました。その年8月、女子の出願を知った文部省学務局長から、東北大学第2代総長北条時敬あてに公文書が届きました。帝国大学に女子を入れるのは前例のないことで重大なことだから、詳しい意見をききたいというものでした。その年5月に沢柳の後を継いで2代目総長になった北条はすぐ東京に出向いて事情を説明し、そのまま女子を受け入れる方針を貫いて、3人の合格者名を官報に載せました。
最初に受験したのは4人でしたが、3人が合格しました。その中に黒田チカ(化学科)、丹下むめ(化学科)、牧田らく(数学科)がいました。黒田はその年の冬、女高師(東京女子師範学校、現お茶の水女子大学)で学んでいたのですが、その時、東京大学教授で女高師でも化学を教えていた長井長義から、ぜひ志願するようにと勧められて受験したということです。
どこよりも早く女子を入学させた沢柳という人は、ほんとに立派です。ありがたい人です。ですが、沢柳をフェミニストだと喜ぶのは早すぎるかもしれません。沢柳にはまた別の思惑があったようです。沢柳は、明治19年に東大、明治30年に京大が創立されて、その後また10年後に発足した後発の帝大総長として、前者にはない特徴を発揮する必要があったようです。一高→東大、三高→京大という高等学校出身者のいわば純粋培養を目指す教育に対抗するには、女子や専門学校出身の多様な学生を集めるしかないと、今でいうダイバーシティの方針を取ったのだといわれています。
いずれにせよ、毎年東北大学には女子学生が入学するようになり、寿岳さんの時は最高の9人が入学したのです。その陰には、周囲の協力や支援や理解が大きかったことは言うまでもないでしょう。女子が大学に行ってどうするの? お嫁に行くのに邪魔になるだけ、女子が大学に行くなんてかわいそう(まだ勉強しなければいけなくて)などなど、社会はほとんど無理解な時でしたから。受験科目は9科目もあり、その前の女子専門学校では教わってもいない科目も独習するモーレツな受験勉強をして、ほんの少し開いていた門をこじあけて、寿岳さんたちは大学生になりました。戦後生まれの、当然大学に行ける時代のわたしたちには想像できない困難があったはずです。
ここで不思議に思うのは、東大や京大の総長たちは、なぜ女子を入れようと思わなかったのかということです。文部省は、東北大が女子を入れると知って驚いたり不快に思ったかもしれませんが、やめさせることはできなかったのです。だったら他の帝大も続いてほしかった……。
もうひとつは、情報を得ることの大切さです。後に著名な化学者になった黒田にしても、女子が帝大に進めるとは思っていなかった、長井という教師が勧めてくれたから大学受験をしました。そうです、地位のある人、力のある人、情報を持つ力のある人のサポートが欠かせません。情報のない女子に情報を与え、機会を与えることが必要です。情報がなければ、大学に入れることも知らないし、大学に入りたいとも思わないからです。
寿岳さんは東北大で偉い教授たちに薫陶を受け、立派な学者になりました。そのことについては東北大学に感謝しています。でも、ある人から京大が女子の入学を拒んでいた理由を聞かされた後で書いています。
「また東大ではどうだったのかをも知りたい。よくも長年拒否してくれましたねという怨みはいまだに私に強い。とりわけ私は東北大卒業後、七年も京大の大学院にお世話になったので、個人的には大いに恩を感じている部分もありながら、全体の構造としては怒りはさめない。東大、京大はその点に関する自己批判をする必要があるのではなかろうか。もちろん当事者はほとんどこの世に居られないかもしれないが、大学の責任において差別の歴史を明るみに出しておいてほしいと、今私はつくづく思っている。」(「私の被教育史からー女性差別は何ほども変っていない―」『季刊 女子教育もんだい』秋号 労働教育センター 1980)
戦前に大学入試の女性差別を受けた寿岳さんが、戦後30年以上経っても憤っています。東大京大に自己批判を迫っています。確かに法律にも女子は拒否すると書いていないのに、何十年も女子は入学できなかった、これほどひどい差別があるでしょうか。
今、わたしたちがジェンダ—ギャップ指数121位という汚名に甘んじなくてはいけないのは、こうした教育の女性差別が大きな要因になっていると思います。近代社会になった明治期から昭和初期まで50年以上もの間、日本の女性は、理に合わない差別を受けてきました。大学に女性が入れなかったということは、指導的立場に立つ女性が育たなかったということです。リーダーがいない、ロールモデルがいないということです。女子は大学に進む必要がない、女子が高等教育を受けても生意気になるだけ、短大に行けばそれで十分、きょうだいがいてひとりしか大学に進むお金がなかったら、男子が進む、こうした性差意識は今でも根強く残っています。それは戦前の女子差別が今でも尾を引いているからです。
コロナで経済状況が苦しくなった家庭もたくさん出ています。大学も続けられなくて、退学生が多く出そうという厳しい予測も出始めています。なんとかせっかく入った大学をやめないで、卒業まで頑張ってほしいと思います。そして特に女子学生の方が多くやめると言うことだけは、決してあってはならないと思います。苦しいのは同じです。ですが、災害でも不景気でも非常時に不利益をより多くこうむるのは女性です。退学者も女性の方が多いということにならないように、心から願っています。
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