田中美津と鍼灸師
2020年9月17日、オンラインで開催されたWAN主催のシンポジウム「フェミニズムが変えたこと、変えられなかったこと、そしてこれから変わること」に参加した。コロナ禍の中、久しぶりに参加するシンポジウムということで、楽しみにして自宅からウェブで拝聴した。
ミソジニストに発言の機会を与えすぎだという意見をもって周囲を巻き込んでいく小川たまかさんの行動力、女性学は自分の問題から始まったことを再確認した上野千鶴子さんの総括などに、それぞれぐっときて納得することが多かったが、やはり私は、鍼灸師としての田中美津さんの話に期待していた。
イベントなどで美津さんが登場すると、リブ時代の話に周囲の関心は向きがちだが、私は、リブのあとメキシコに渡りその後帰国して30代半ばで鍼灸師を目指して資格をとったこと、シングルマザーとして子育てをしながら40年あまりの時間、お金を稼ぐことと、生業としての鍼灸師を一致させ続けてきたということに興味をもっている。それは私自身が、鍼灸師を目指して専門学校に通っている学生で、来年の2月に国家試験の受験を控える身であるということによる。
30代、私は大学の研究員として働いていた。30代は、体やメンタルの不調が度重なり、大学で仕事をすることと、フェミニストでいることの関係を自分の中で調和できないことにとても悩んでいた。そして、体調の問題が深刻になったとき、鍼灸治療を受けたことにより私は救われた。身体と心が徐々に回復していくことを、1週間に1回の治療を経過するごとに理解するようになったのである。
私は田中美津さんの思想をすごく読み込んだわけではないけれども、「自分のぐるりのことから始める」という言葉は私の中に響いている。そして、「鍼灸師になったリブ運動家」というその存在が、大学の研究員から鍼灸師にジョブチェンジする一つのきっかけになったことも確かで、この選択に前向きになっているいま、こうしたロールモデルを私に提示してくれた、先輩フェミニストの存在にとても感謝している。
フェミニズムの世界では、田中美津さんの存在によって「鍼灸師」という職業についてはある程度認識される状況かもしれないが、その具体像については、実際に治療を受けたことのある人でないと、なかなか想像しにくいのではないだろうか。
それもそのはずで、隣の韓国や中国では一般化されているのに、日本では鍼灸治療を一度も受けたことがないという人が普通にいる。森ノ宮医療大学鍼灸情報センターのHPの情報によると、国民の鍼灸年間受療率は5~7%で、生涯受療率は20~30%程度となっている。医療の教育制度や保険制度など国家システムの問題が大きく影響しているが、そのため鍼灸師は一般だけでなく、医療現場においても他の医療人との間に隔たりがあり、その存在意義は低く見積もられている感がある。
鍼灸学校に通う女性たち
しかし私が、実際に鍼灸師の資格を目指して専門学校に入学してみて、見える景色が広がった。職業選択のための学び直しや、身体性の回復の場として、社会人経験のある女性たちにウケている気がするのだ。ハローワークが実施する教育訓練給付金制度の対象に鍼灸師が含まれており、資格を取るために学校に在籍している間は、出席状況などの条件を満たせば失業保険の8割程度が支給されるため、社会人経験者のジョブチェンジが後押しされる。また、鍼灸師は業務独占業であり、治療院を開業して独立するという道が開かれており、企業組織には属さず自立した働き方を叶える一つの方法として、鍼灸師が選択される傾向にあるように思える。
私が所属するクラスにおいても、高校を卒業してすぐに入学したという学生は2割程度であり、大多数は20代から50代の社会人経験を経て入学してきた学生――男女比は半々――によって構成されており、その多くは将来、独立開業を目指している。
かつて金井淑子さんは、働く女性にも「バリキャリ」から「一般シングルウーマン」まで多層化する構造があり、上方への圧力の中で働く女性のメンタルヘルスを危惧し、産むか、働くか、女性身体の再領土化が行われている現代女性の「ままならない女性・身体」の問題を示唆した(金井、2015、95)。
クラスメートの学生には高学歴者が多く、私が日頃コミュニケーションをとっている友人女性たちも海外赴任や営業職の経験のあるいわゆる「キャリア女性」であった。金井淑子さんの分析に基づけば女性の階層化の中で最上層に位置づけられる「バリキャリ」の女性といえよう。上記の研究では、アッパークラスから降りられない女性の不安が指摘されていたが、クラスメートの女性たちは、自らの意志でドロップアウトし、鍼灸師を目指して学び直しの積極的な選択を行っている。彼女たちは、身近にフェミニズムを意識することはなかったようであるが、働く社会構造の中で直面した不調の経験を認識しつつ、将来の鍼灸師像を明確にもちライフステージを再構成する意欲に満ちている。働くことと、自己の身体性の回復の場の一致が同時に期待されているのである。
正規雇用という面において安定した働き方をしていた女性たちが――「辞める」という選択をしなければ定年まで働くことが予定調和的に用意されていた――、わざわざその仕事を辞め、「鍼灸師」を目指す状況ができているのである。
鍼灸の世界観に対する魅力と期待
このように女性たちを東洋医学の世界に引き込んでいくプル要因は一体何なのか。
そもそも鍼灸治療は、人と外界を隔てるコンタクトゾーンであり、外界の脅威に対する防御機構である<皮膚>を破り侵入して治療を行うという、一見すると非常に暴力的な治療法だといえる。治療のメカニズムとしては、鍼灸による皮膚への侵害行為によって放出された化学物質によって血管が拡張し、血流が良くなって皮下組織の滞りが解消されるというものである。東洋医学では、臓器の不調が現れる反応点というべき場所が体表にあると考え、その場所の陥下や硬結などによってそれぞれの臓器の不調を触知し、そこに鍼灸を施すことによって体の不調を取り除くというものであり、とくに未病治に対して効果を発揮する治療法である。
当然、健康な皮膚を破って体内に侵入するのであるから、切皮の際は痛みが伴う。鍼管を用いる日本鍼灸はその痛みを最小限に抑えられるが、刺入の際の痛みの感覚に重きを置き、「得(とっ)気(き)」という鍼の響きを患者に与えることを治療の神髄とする中国鍼では、刺激量は多く、この感覚を苦手とする女性は多い。
私は、とくにこの中国鍼の実習の際に、鍼の刺入によって痛みを感じ悶絶する女性たちの姿を見ていると――施術者が男性であれば猶のこと――、その光景は性交渉において女性が感じる痛み、望まない性交渉によって痛みを感じさせられる暴力的なシーンを感じ取ってしまうことがある。鍼灸治療はフェミニズムとは正反対のマチズムな行為としてみなすこともできるのだ。
しかし、こうした治療を乗り越えたあとは、田中美津さんの言葉を借りれば「ホゲホゲ」状態が到来し、体が抱えていた緊張が一気に緩む。美津さんの治療を受けた伊藤比呂美さんが、絶叫するほどの痛みのあと、体の辛さからの解放を感じて「いつ殺されても本望と思いました、ハイ」(田中、2019、195)と綴るその気持ちは私にも大変よく分かる。良質な治療を受けた翌朝、自分の体がベッドと一体になって、体がベッドに溶け込んでいくような感覚に襲われるような体感を得ることがある。そこには、<煩悩の多いわたし>を殺して、嵌められた枠組みから自由になって自己遊離する幸福感というべきものが、いっときの間存在している。
また治療についていわれていることは、ケアする身体とケアされる身体の双方の関係性において、ケアを受けた側が精神的安らぎを得ることはもちろんであるが、ケアをした側にもケアをするという行為によってオキシトンシン――授乳のときに下垂体後葉から分泌されるホルモン――が分泌され、精神的安定を得るというものである。実習のあと、体は疲れているにも関わらず、気持ちは充足感を伴ってスッキリしているということがよくある。治療は、患者との二者関係においてもちつもたれつの相互依存的関係であることが素直に浮き彫りになる。
こうした鍼灸治療を支える理論として東洋医学思想がある。東洋医学には「本治」と「標治」という考え方があり、例えば「不眠」という症状に対して、眠れない状態を改善するための「標治」治療を行いつつ、眠れないのは、体の中の気・血・津液・精のバランス不全が原因だとみなして、体のどこに、どのような滞りがあるかを見抜き問題の本質を糺す「本治」治療も行って、体質の根本的問題の改善、全体性の中での回復を目指していく。
東洋医学において、バランスという考え方はとくに重要で、それを示す概念が陰陽思想である。これは、陰と陽の二つの気の対立と統一による相関関係ですべての事象を捉えることができるとするもので、例えば、左は陽であり右は陰、若年は陽であり老年は陰、奇数は陽であり偶数は陰などと捉える。そしてこの思想に従えば、男は陽であり女は陰であるというジェンダーが付与されるが、このような配当では、それぞれの意味の優位性/劣位性は区別されない。男女の陰陽の差は相対的な関係の差によってであり、女性が「陰」とされるのは、子どもを産んで二つに割れる、偶数で数えられるためであり、男性が「陽」であるのは男性からは分離されるものがなく、奇数で数えられるためである。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」というように、「陰」と「陽」に主客の関係はなない。
一方の意味が大きくなればもう一方は打ち消されていくが、打ち消されたところはあらたな意味を生み出すゼロ地点として陰陽消長の円環構造が敷かれている。これを田中美津さんの分かりやすい言葉で捉えれば「×が○に、○が×に変わる『陰陽世界』のフシギ」(田中、2002、70)となる。このような世界観では、解剖学的性差の枠組みと、「×」が「○」になるために「○」が「×」に打ち消されてしまうという問題点は残ることになるが、客体化されてきた<女性>の身体性や精神性の回復を志向するもの――×だった私が○に変われる思想――として、あらためて、このフシギに注目できるのではないかと私は考えている。
対立概念の円環構造だからこそ、過去の自分を抹消せずに、他者との関係を再構築することが可能となる。自分の実存に対する責任を忘れてはならないが、回復のための段階を丁寧に踏むことのできる、過去との連続性の上に今の自分を大事にできる「私」に優しい思想のように思えるのである。
鍼灸師っておもしろい
来年2月に国家試験を控え受験勉強をおろそかにしながら、まだ資格さえとっていない身分であるというのに、東洋医学、鍼灸師云々のことを書いている。しかし、鍼灸師見習いの学生時代に感じた私の手ごたえというものをここに残しておきたかった。一見すると暴力的な治療のあり方が、実は全体性の回復を試みる一つの機序になっていること、ケアをする/されるという相互依存的関係性の構築、陰陽思想における主客の関係性など、おそらく、これはフェミニズムを議論している人たちにも、響く観点なのではなないか。
何かと何かの分断対立からではなく、何かと何かの対立から統一へと変化する相対的な関係性と、全体のバランスという観点から、ひとりの人間の実存が志向されている世界観、目の前の患者と向き合う治療者の身体性、ここには、やっぱり田中美津さんが鍼灸師になる前から言い続けてきた「ここいる女」の求めるものが集約されているような気がするのである。鍼灸師ってきっとおもしろいに違いない。私、これでやっていけそうな気がする。人生前向きだ。吹いてくる風が愛しい。そう思わせてくれたフェミニストが私たちの世界に存在することに感謝して。その存在を知らせてくれるフェミニストのコミュニティがあることにも感謝して。
引用・参考文献
金井淑子、2015、「ままならない女性・身体:働くのが怖い、産むのが怖い、その内面へ」小杉礼子・宮本みち子編『下層化する女性たち:労働と家庭からの排除と貧困』勁草書房、73-97.
小曽戸洋・天野洋介、2015、『針灸の歴史:悠久の東洋医術』大修館書店
教科書検討小委員会、2015、『新版 東洋医学概論』日本の医道社
ロック,マーガレット、1990、『都市文化と東洋医学』思文閣出版
大塚敬節、1956、『漢方医学』、創元医学新書
田中美津、2019、『この星は、私の星じゃない』岩波書店
―――、2002、『ぼーっとしようよ養生法』三笠書房
2020.12.05 Sat
カテゴリー:集会・イベントレポート
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