戦後75年以上が経過し、「あの戦争」を体験した世代がいなくなりつつある。近い将来やってくる「体験者のいない世界」で歴史記憶の継承はどのようにして可能なのか。そもそも私たちは、なぜそれを継承しなければならないのかを問う、大部な労作。

本書は2017年度日本オーラル・ヒストリー学会(JOHA)第15回大会シンポジウム「戦争経験の継承とオーラル・ヒストリー 体験の非共有性はいかに乗り越えられるか」と特別部会「再び(戦争の子ども)を考える」を出発点とし、さらに戦争体験の継承に挑戦する新旧の平和博物館の取り組みをあわせた2部構成からなる。

蘭信三は序章で、(1)<ポスト戦争体験の時代>になぜ戦争体験を継承するのか。(2)それはどのようにすれば可能なのか。(3)冷戦崩壊後のグローバル社会で、それはどのような意味をもつのか。(4)1990年代以降、様々な戦争体験が想起されクローズアップされたり、また多くの平和博物館が開設されたりしてきたが、それらの現象はどのような社会的意味が付与されているのか、を明らかにしていきたいと書く。

第1部「体験の非共有性はいかに乗り越えられるか」では、小倉康嗣の第1章「継承とはなにか――広島市立基町高校「原爆の絵」の取り組みから」が、圧巻。2007年から始まった広島市立基町高等学校創造表現コースで「『次世代と描く原爆の絵』プロジェクト」で、絵を描きたいと立候補した高校生たちが、被爆者(証言者)と何度も会い、じっくり話を聴きながら絵を描いていくプロセスを追う。たとえば「焼けた赤ん坊と母親」を目撃した、当時、女学生だった被爆者と、その話を聴いて描く高校生と。戦禍を知らない生徒と悲惨な体験を忘れてしまいたいと思う当事者との間に生ずる葛藤と苦悩。だが両者は、その「場」から決して逃げようとはしない。それぞれが向かい合う中から新しい絵が創造されてゆく。「もしこの場面を正確に写した写真があったとしたら、絵とどちらがいいですか?」と問う小倉に、どの被爆者も、迷いなく「絵がいい」と答えたという。そこには若い高校生と高齢の当事者と、双方にインタビューをする研究者との間に、三者三様の「記憶の協働」が生成されていったのだと思う。

第2章「開いた傷口に向き合う――アウシュビッツと犠牲者ナショナリズム」は、イスラエルの高校生がポーランドのアウシュビッツを訪問する授業で「犠牲者ナショナリズム」というイスラエルに固有の個別性が獲得されていくアイロニーを描き出し、戦争体験継承が一筋縄ではいかないことを掬いあげていく。第3章「戦友会の質的変容と世代交代」。第4章「創作特攻文学の想像力」。第5章「戦争体験の聞き取りにおけるトラウマ記憶の扱い」。補論「戦争を<体験>するということ」など、いずれも戦争に否応なく向かわざるをえなかった人々と、それを追体験しようと試みる若い世代との間に何かが確実に生まれてくる。そのことに未来へのかすかな希望を垣間見る思いがした。

 第2部「平和博物館の挑戦――展示・継承・ワークショップのグローバル化」では、各地の平和博物館の活動が記述される。英霊を祀る「遊就館(靖国神社)」。長崎原爆資料館。広島平和記念資料館。第五福竜丸展示館。知覧特攻平和会館。大刀洗平和記念館。人吉海軍航空基地資料館。ひめゆり平和祈念資料館。立命館大学国際平和ミュージアム。昭和館。しょうけい館。東京大空襲・戦災資料センター。戦争と平和の資料館ピースあいち。アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)。満蒙開拓平和記念館など、当事者、研究者、キュレーターが克明に活動とその変容を記していく。とりわけ「女性国際戦犯法廷」開催を契機に生まれた「女たちの戦争と平和資料館」(wam)は、松井やよりさんの思いを次代に引き継ぎ、「慰安婦」問題や戦時性暴力問題に特化して、今も積極的な活動を続けている。

 今野日出晴は終章で、「個々の体験を普遍的な経験に昇華するために、死者をも含めた他者の痛みや苦しみを深く想起し、自分自身の身体を通して共有していくことができれば、それは人権と呼ばれるものの根源に触れるだけではなく、国境を超えても成り立ちうる人権とは何かということを示し、新たな社会的・歴史的コンテクストを創り出すことにつながるかもしれない」と結ぶ。それは、まさに今、私たちに問われている課題であり、私たち自身の責務でもあると思う。

 なお各執筆者の脚注や引用文献、平和博物館関係研究文献リスト(2009~2019)など、詳細な参考文献は、読者にとって貴重な資料となる。戦争への道を逆行しつつある、この時代にこそ、おすすめの一冊。

書誌データ
書名 なぜ戦争体験を継承するのか ポスト体験時代の歴史実践
著者名 蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編
出版社 みずき書林
刊行年 2021年2月20日
定価 6800円+税