寿岳章子さんの本や日記を読んでいるうちに、ついにご両親の寿岳文章・しづ氏の代表作『紙漉村旅日記 定版』(春秋社1986)にたどり着いてしまいました。昭和12(1937)年から15(1940)年にかけての、全国の紙漉きの村々を調査行脚した旅日記です。80年前の夫婦共同フィールドワークの報告書でもあります。調査の方法や内容、行脚する先々の人々や風物など、どれも面白いのですが、何よりもこの夫妻の研究と旅のあり方が面白いので、ここに紹介したくなりました。

 ふたり(本の中では文章と静子です)は、全国の北は岩手・秋田から南は鹿児島までの38府県、実に125カ村の和紙を漉いている現場を訪ねています。新幹線も旅客飛行機もない、もちろん高速道路もない時代です。

 紙を漉いて成業にしたり生業の補いにしたりする地方というのは、農業をしたくてもするだけの耕地がない、山あいの他人を容易によせつけないような、たどり着くまでが大変な所が多いのです。ふたりは、汽車の時刻と地元のバスの時刻をよく調べて、その接続のいいコースを選んで出かけています。バスを降りてからも、すぐのところは少なくて、そこからは山道半里(2km)とか1里(4km)とかを歩きます。文章は洋服に革靴ですが、静子は着物に下駄ばきです。

 京都の山奥の村へ行った時の日記です。

 「雨はきびしくはないが止みさうもない。[…]めざす畑(地名)は、ここから半里少々余とのことに力を得て、教へられた道をすたすたと辿る。[…]冬はずゐぶん寒いところらしい。山蔭や山裾の窪みにまだ相当雪が残つてゐる。道は淋しく段々と登りがきつくなつて行く。雨の跳ね返りで、もう静子の足袋はぐしよ濡れだ。足は冷たく、体は坂道を登る苦しさで暑いと言ふ。[…]半里そこそこと聞いてきたのに家らしいものは中々見当たらぬ。[…]こんな雨の日に、こんな道を一人で知らぬ処へ訪ねて行くのなら少々淋しいなどと、語り合ふ。」(p.122)

 ひとりでだったら、とてもこられないような淋しくきつい山道を、足袋もぬらしながら登っていきます。互いに相手がいるからこんな淋しい道も我慢できのだと語り合っています。険しい山道を歩いて下駄の歯が欠けることもあります。来るはずのバスが大幅に遅れて、次の汽車の接続に間に合わないこともあります。かと思うと、話を聞くのに夢中になっているうちに終バスが行ってしまったこともあります。タクシーを呼んでも、町にたった1台のタクシーは出払っていて帰るのを待つなら歩こうと、1時間ほど歩いたこともあります。

 朝は旅館で食事をして出かけますが、行く先によっては食堂などなくて、お昼抜きでいくつかの村を駆け回ることもあります。

 「今日は朝6時頃食事をしたきり、お茶菓子以外何一つ食べず、しかもずゐぶん道を歩いたりバスに揺られたりしてゐるので空腹烈しく、気分が悪いほどである。」(p.220)

 昼食も抜きで調査をして、真っ暗になって鉄道の駅まで戻り、予約しておいた宿を探します。宿では夕飯をまずすませると、文章はその近辺で作られる和紙を買いに出かけます。静子はその日見聞きしたことを日記に書き記します。翌日訪問することになっている村の担当者が打ち合わせに訪ねてくることもあります。来客も帰り、眠いのを我慢して日記をつけて寝るのは早くて10時半、遅いと12時過ぎにもなります。

 こうした旅のことを文章は書いています。

 「昭和十二年の秋から、なるべく学校の休暇を利用して、率ね同行の妻を助手格に、全国のめぼしい紙漉き村を行脚し、或は古老に尋ね、或は文献に拠り、抄紙に関する史実や伝説を隈無く求めて歩いた。家庭の事情や妻の健康状態は、必ずしもこの旅行を楽々と果させてはくれず、その意味では、紙衣一枚をさへうるさく思つた芭蕉の奥羽大行脚にもまさる困難があった。[…]旅に出ると、必ず日記をつけることにし、原則として、沿路の叙景や紙漉き村の描写は妻が、紙漉に関する専門的な記述は私が、それぞれ担当した。」(pp.57-58)

 芭蕉の奥の細道にも匹敵する大旅行だったのです。以下は、和歌山県九度山町の調査の結果です。

 「埃ぽい縁端に腰かけて五十がらみの中上氏から色々と高野紙の話を聞く。ここは農業と紙漉とが半々ぐらゐの状態で、年中漉いてゐる家もあれば、冬季だけ漉く家もある。九度山町全体に漉家があるが、下古沢が最も盛んである。一尺六寸に一尺一寸五分の萱の簀で、朝五時から夜十時まで紙を立てるとして、平均六百枚は仕上げる。漉手は女。楮を煮たり紙を乾したりするのは男の役。…」(p.86)

 「聴き取りを静子に委ねておき、日の陰らぬうちにと文章はカメラをもつてこの谷間の村の上に立つ。[…]急な傾斜のあちこちに民家が点在する山村で、ほんの一隅しかレンズに入らない。文章が役場へ戻ると、静子は老収入役から聞いたこと書きつけてゐる最中であつた。」(pp.83-84)

 「同行の妻を助手格に」と文章は書いていますが、妻は助手どころではありません。立派な研究者として聴き取りをしています。 村々での調査の内容は、紙漉きの歴史、漉き方、漉き手、漉く材料、道具、サイズ、紙の質、1日働く時間、1日の生産高、漉いた紙の値段、漉きながら歌う歌があるか、その地の宗旨は何宗かと、微に入り細にわたっています。これらの調査項目を、訪ねる家々で繰り返します。大変根気のいる仕事です。短時間で何軒もの家を訪ねたいので、文章のカメラと静子の聴き取りという分業もします。紙漉きの沿革を書いた書物が出てくることもありますが、そういう資料があると急いで関係のありそうな個所を筆記して写しとります。コピー機はまだありません。

 前もって村長さんや区長さんにいつごろいくかを知らせて頼んではあるのですが、それを了解して準備して待っていてくれるところばかりではありません。アクシデントもおこります。行くことになっていた村で「今日の午後戦没勇士の村葬があり、だいぶ取り込んでゐる模様ゆゑ、いつそ隣村―漉かれる紙は同質なよし―へ行かうと云ふことになる」(p.255)と、急遽隣の村に変更したりします。旅館にふたりの警官がやってきて、根掘り葉掘り聞いていったこともありました。

 こうした旅を長いときは2週間、短くても4日間と、ふたりは続けています。毎日の日程が忙しくて、「金屋で少し待つ時間がある。さうした僅かの隙にも、静子は日記を整理する」(p.76)と、バス停で日記を整理することもあります。こうした日記の中に、「小憩ののち、静子と二人で雨の田辺の町を見物する」(p.76)と文章が書き、「静子はお土産の珊瑚の帯〆を幾つか買って、文章にからかはれる」(p.248)と静子が書いて、仲の良いふたりの文章が非常にうまく溶け合っています。日暮れごろには家に残した二人の子供のことも気にかかります。昭和15(1940)年5月の信州の宿で文章が書いています。

 「新緑の美しい庭が見渡されてすが/\しい。今晩こそよく眠るのを楽しみにする。[…]風呂に入り、七時夕食。日記をつけて就寝。
  水篶刈る信濃の旅は憂しと言へど妹とし来ればさぶしくもなし
    (=信濃の国の旅はつらいこともあるが、妻と一緒に来ているのでさびしくもない。)
  :水篶刈る(=みこもかる)は「信濃」の枕詞 」(p.279)

 文章にとって静子は絶対不可欠の存在でした。静子も文章に全幅の信頼をおき、その学問への尊敬を抱いていました。『紙漉き村旅日記』は、衰退し始めていた和紙産業の当時のありさまを科学的に実証的に記録した貴重な報告書ですが、同時に、寿岳文章・しづ夫妻が全く対等な立場で調査し、記録した記録集でもあります。80年前の、いや、現在からみてもたぐいまれな開かれた夫婦像を伝える絶好のサンプルなのです。