山梨県峡東地域から「magazine P」創刊号!が発刊されました。記事はこちら→https://wan.or.jp/article/show/9854

大人の自由研究所「こども未来ラボ」https://kodomomirailab.wixsite.com/website がつくった、PeaceでPunkなフリーペーパーです!
「市川房枝女性の政治参画基金」の助成を受けて、 山梨県の子育って真っ最中の女性2人と、イラストレーターの女性、縄文大工の男性の4人の制作チームで発行している冊子です。



市川房枝さんは山梨とどのような縁があるのでしょうか。
Masakoさんが歴史をひもとき「おまけのお話」を寄稿してくださいました。 辛抱強く働き者だった山梨の女性たちですが、辛抱できなくなった時には声を挙げ、“全国初”“戦前最大規模”という二つのストライキに名前を残しました。大正時代のフェミニストたちと社会状況が身近に感じられます。どうぞお読みください。

【市川房枝と山梨】by Masako

 大正初期、山梨の新聞でも、平塚らいてうなどの創刊した『青鞜』をメディアがからかった言葉「新しい女」についての記事が、いくつか掲載されています。大正6年(1917)には「県庁正門の扉に『新しい女』を撲滅せよ 甲斐血潮神風連」という落書きがされるほど、一定の層の県民には知られていたようです。
その後大正期全般にわたって山梨日日新聞などの地元紙は、「婦人参政権」や「婦人解放」、「女子教育論」などについて、下田歌子、山脇房子、与謝野晶子、山田わか、吉岡弥生といった「中央」の著名な女性たちによる論説を多く掲載しています。
そういう背景の中で、山梨日日新聞には市川房枝の論説が2本載っています(下の黒太字)。

大正13年(1924)10月17日「女故にの職業の拒絶は甘受できない ――同一の仕事には同一の賃金を払え」
大正14年(1925)8月17日  「家庭の革命と婦人」

また記事だけでなく、下田歌子や広岡浅子などが来県しての講演会も行われており、大正14年(1925)4月には「婦人参政権獲得期成同盟会」(のち「婦選獲得同盟」)の女性3人による婦人参政演説会が甲府を始め県内数カ所で開かれ、多くの女性たちが参加しました。
 広岡浅子と言えばNHKの朝ドラ「あさが来た」の主人公ですが、同じく朝ドラ「花子とアン」の主人公村岡花子(旧姓安中・甲府市出身)も、大正5年(1916)、山梨英和女学校の教師をしていた時に広岡が毎年御殿場の別荘で開いていた「夏期講習」を通じて、小学校教師をしていた市川房枝と出会いました。
広岡は「夏期講習」で「女性の政治家が誕生しなければ、真の婦人解放はない」と若い女性たちに説きました。市川は『自伝』(戦前編)でこの夏期合宿について、「後年私の友人となった日本基督教婦人矯風会幹部の守屋東氏、群馬の東洋英和の先生であった安中花子(のちの村岡花子)氏がいた。」と記していますが、これは記憶違いでしょう。

さて山梨県は明治・大正期、生糸の一大生産地で、「製糸工女」と呼ばれる女性たちが紡ぎ出す生糸の輸出が、県の経済を支えていました。それだけ地域経済に貢献していながら工女たちの社会的地位は低く、卑下の対象でもありました。さらにその労働は1日18時間に及ぶという記録もあり、繭を窯で煮て糸をとるという労働環境自体も過酷で、夏は気絶者が出たり、機械に髪をはさまれての死亡事故などもありました。 こういう過酷な状況に対し、工女たちは二つの手段で対抗しました。一つはストライキです。日本初として有名な「同盟罷業」は、明治19年(1886)に甲府の製糸工場で工女たちが起こしたものです。 もう一つの対抗手段は「出稼ぎ」です。明治後期には、中央線が甲府から岡谷まで延長されたこともあり、県内工場よりは賃金の条件が良いと思われた長野方面への出稼ぎ工女が急増しました。でも労働条件はやはり酷いものでした。
市川房枝は「国際労働協会婦人労働委員会」の一員として、大正15年11月に山梨、長野方面の製糸工場の視察を行っています。市川ほか7人が「製糸工場における工女の労働状態調査」のため来県し、甲府市鐘紡製糸場などを視察したと、地元紙に報じられています。
そのあと一行は、山梨からの出稼ぎ工女の多い岡谷に向かい、地元では、「製糸工場の寄宿舎から逃げ出し、鉄道で湖水で自殺する工女が相当数いる」こと、工女たちが無記名で書いた「一番イヤなこと」の中に「夜這いが来るのはイヤだ」などがあったことなどの情報を得て「暗然と」しています。その当時、岡谷には山梨からの出稼ぎ工女が5000人以上いました。
そしてこの視察から帰って間もなく、市川は岡谷で女性たちの相談に乗る「母の家」が一人の女性によって開設されたという知らせを受け、その後援会を作り、吉野作造を含む有志からの寄付で支援金を送っています。今でいえば、工女たちのためのシェルターということでしょう。
そして岡谷での調査から8か月後、昭和2年(1927)8月末に岡谷の山一林組製糸工場で争議が起こりました。この年の3月に岡谷に「全日本製糸労働組合」が誕生していたのですが、林組の労働組合は8月28日に「組合加入による不利をなくす」「賃金・食料・衛生の改善」についての嘆願書を会社に出していたのが聞き入れられず、30日同盟罷業に入りました。山一林組は当時全国でも十指に入る大会社だったのですが、諏訪地方の製糸工場では初めての争議で、第二次大戦前の製糸工場争議としては最大規模と言われています。
中心になった1300人の9割が女工でした。山梨日日新聞は特派員を派遣して取材記事を何本も載せています。「主導者」のほとんどが20代の山梨出身の女性たちで「まさに、山梨県人の争議の感がある」と。会社側は工場や宿舎の閉鎖で対抗し、行き場も食料も失った工女たちは次々と帰郷を始めますが、9月15日には「本県人二百数十名『母の家』に籠る」と題した記事がみられます。
この状況が「母の家」後援会に伝えられると、市川や金子(山高)しげりが毛布や金品を持って「母の家」を慰問していますが、9月17日に残留者47名の争議団は解散し、争議は終結しました。 昭和4年(1929)には、この争議で中心となって活躍した女性も参加して、山梨県で初めての製糸労働組合が結成されましたが、その時、市川房枝、金子しげりも婦選獲得同盟からの来賓として招かれていますが、このような縁があったからとも推測できます。
そして昭和5年11月には「婦選獲得同盟総務理事市川房枝が甲府商工会議所で、『婦人公民権とは何』と題して講演する」との記録が見られます(山梨日日新聞)。
近代史の記録から見る山梨の女性たちは「辛抱強い働き者」ですが、辛抱できなくなった時には声を挙げ、“全国初”“戦前最大規模”という二つのストライキに名前を残しました。

この「おまけ」を書くことで、山梨と市川房枝の縁がいくつもあることを確認できたのですが、同じように全国様々な地域に記された市川の足跡がさらに掘り起こされるといいなぁと。お読みくださって、ありがとうございました。

<参考資料>
・『市川房枝自伝』戦前編(新宿書房)昭和49年
・『山梨女性史ノート ―年表に見る女性の歩み』大正編・昭和前期編(山梨女性史ノート作成委員会)1991年、1995年
・山梨県立大学地域研究交流センター2010年度研究報告書「やまなし地域女性史『聞き書き』プロジェクト」
 http://www.i-repository.net/il/user_contents/02/G0000632repository/cch2010004.pdf
・山梨県立大学地域研究交流センター2014年度研究報告書「やまなし地域女性史『聞き書き』プロジェクト」
http://www.i-repository.net/il/user_contents/02/G0000632repository/cch2015006.pdf



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