【フェミニズム入門塾 第3回「性役割」受講レポート】

「夫婦間の役割分担の葛藤と学び」 五井渕利明
性役割について学び議論に参加したことで、自分の中にあった葛藤が呼び起こされ、学びを整理することにつながった。わたし自身のさらなる学びを進めるためと、誰かの参考になればとの思いで、当事者としての体験をレポートとして書き出すこととしたい。
わたしが妻と結婚して6年経つが、ジェンダーフリーの役割分担を進める上で、いま振り返れば以下の2つのことが出発点として作用していたと思う。
1つは、結婚後の氏は妻のものとしたこと。わたしの「五井渕」は旧姓であり、日本に50名もいないらしい珍しい名字だ。ただ、口頭で聞き取られにくい、子どものころは無闇にいじられるなど、覚えてもらいやすいというメリット以上に、扱いがめんどうくさいという特性があって、子どもに引き継ぐことには後ろ向きだった。そのため、妻の側の濁音のないサラッとした名字になることに決まった(もし選択的夫婦別姓が可能なら別姓としたと思う)。
もう1つは、わたしが結婚直後に前職の地方公務員を辞しフリーランスのような働き方となり、最初の1年ぐらいは低収入かつ貯蓄がゼロであったこと。稼げないことへの劣等感もあったとは思うが、基本的に楽観的であったし、数年経てば軌道に乗った。家族をつくり始めた時点では、「稼ぐ男」が家庭内に存在しなかったのだ。
しかし、それでも当初のわたしは無自覚の「男ボーナス」「男特権」の上にあぐらをかいていたと思う。できる家事を気が向いた時にだけやり、子どもが産まれた後もうんちのおむつ替えは嫌がり、妻と調整せずに自分だけ夜の飲み会に出かけていた。
妻は諦めなかった。妻が最初にフェミニズムをに触れたのは対談本「上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!」(上野千鶴子、田房永子)だったと思う。それを「読みなさい!」と渡され、わたしは読んだ。自分がいかに特権を濫用していたかに気づき、それを恥じることになった。妻は「わたしはフェミニストとしてまずパートナーであるあなたを殺す(一人一殺)」という意味のことを宣言し、それからわたしたち夫婦は多くのフェミニズムに関する書籍や映像に学び、前後して定期的な家事・育児の役割分担調整のミーティングを始めた(いまでも月に1回開催している)。 わたしたち夫婦の役割分担が是正されていったターニングポイントは3点ある。
1つ目は、妻による「役割分担マトリクス」の作成だった。横軸に担当者、縦軸に発生頻度を起き、大小の家事が配置された。恥ずかしながら見える化されるまで家事の全体像には思いも至らず、明らかに視座が低かったのだと思う。
2つ目は、産後の育児への温度差である。第一子の出産後、(よくあることとして)妻は夫を優先しなくなった。彼女の第一優先はもちろん育児である。わたしは妻の関心が自分から離れていくことが寂しく、かつ恐ろしく、それを取り戻すために家事育児へのコミットを高めた。
3つ目は、コロナ渦で夫婦ともリモートワークになったこと。これにより(残っていた男ボーナスだった)「仕事のための飲み会」というカードが使用不能になり、かつ同じ労働環境であるなら家事育児役割も完全にフェアであることが当然、という方向性になった。
これらを経て、いまでは(妻も認める形で)ほぼ完全にフェアな役割分担が実現された。同居生活が始まった時にわたしが任命された「トイレ掃除」という役割を、最近の調整の結果で妻に変更されたことは象徴的だったと思う。
フェミニズム入門塾第3回で印象的だったのは、性役割について「夫婦・カップルという当事者だけの話し合いで解決するのは相当に困難」という気づきだった。たしかに、わたしたち夫婦が変化したこの数年間には、非常に多大なる(特に妻による)努力を要した。ここまでくるのはレアケースだとも思う。
しかし、なぜ、シンプルにフェアでありたいだけなのに、多大なる努力が必要になってしまうのか?
いかに男性側のボーナス・特権が、強固に「当たり前」として洗脳・呪縛になっているか、だと思う。
夫婦間のジェンダーレス役割分担を実現するまでの、当事者としてのわたしの葛藤の変遷は、以下のようなものだったと思う。
(1)「俺はやっている方だ」という勘違い。
(2)「さほど稼いでもない男なのにすみませんね、はいはいやりますよ」というひねくれた開き直り。
(3)「えっ、こんなにやっていなかったの?」という、現状を可視化されたことによる驚き。それによる反省と行動改善。
(4)「家族の一員として見放されたくない」という、すがりつき。
(5)コロナ渦が大きく社会を揺さぶったことによる、立ち位置・ポジションの揺らぎ。
(6)フェミニズムについて学ぶことによる社会構造への気づきと、自分がいままで「踏みつける側」として無自覚な言動をとっていたことへの大きな羞恥心と後悔。
塾では、社会の慣行を変えることには長い時間とありとあらゆるアプローチが必要だという示唆をいただいた。
「踏みつけられる」ことへの痛みに気づき、「踏みつける」ことの恥ずかしさ・おぞましさを発見し、行動を変えていける男性を少しずつでも増やしていきたいと思う。
そのために、わたし自身が「ありとあらゆる」の小さなひとつになれればと願い、男性から男性へのアクションを起こしていくつもりである。


WANフェミニズム入門講座 第3回「性役割」受講レポート 橋本

 原始時代、男は狩りに行って食糧を調達する役目を、女は木の実を採ったり子育てをしたりする役割を担っていた―「男は狩猟・女は採集」と考えられてきた。しかし、その言説はウソだったと今回の講座で学んだ。近年の研究では、多くの女性が小動物を狩っていたことが明らかになったという。獲物を持って帰れないかもしれない男をただボーッと待っているのではなく、女は自らsurviveするために洞穴(?)を飛び出して狩りに出かけて行ったのだ。私は愉快になって、この件が気になったので翌日少し調べてみた(ネット検索しただけであるが)。2020年11月4日付で学術誌「Science Advances」に発表された論文によると、約9000年前の南北米大陸では、女性ハンターは例外的な存在ではなく、大型動物ハンターの30~50%が女性だった可能性があることが明らかになったそうである(文)MAYA WEI-HAAS 、訳)稲永浩子、日経ナショナルジオグラフィック社 ナショナルジオグラフィックニュース2020年11月9日付)。
 このように、研究は私たちの思い込みを覆し、真実を探る道を照らしてくれる。だが、実際には、真実の解明イコール意識改革となっていかないところが非常に厄介である。社会のあらゆる場面で長年叩き込まれてきた通念は、「慣行」として私たちの血となり肉となり身体の一部にさえなっているように感じる。
 今から約30年前、私は大学を卒業したが、友人の中には、大学院に進学するため婚約者と別れなければならなかったり、学部卒業後、結婚まで1年間だけTV局での仕事を婚約者から「許可」してもらったりする人もいた。他の友人も、結婚後出産を機に退職した人がほとんどである。こんなに狭い私の経験の範囲内であっても、当時は確実に「男は狩猟・女は採集」の精神が、「男は仕事・女は家庭」の慣行として生きていた。
 第一波フェミニズムが参政権など近代的市民権の獲得を目指したのとは異なり、第二波フェミニズムの時代には、戦後憲法で法の下の平等が認められていた。法律上は男女平等であり、「男は仕事・女は家庭」などとは決められていない。なのになぜ、男性は労働で対価を得ることができ、女性は不払い労働(家事・育児)に従事しなければいけないのか、なぜ男は稼げるのに女は稼げないのか。上野先生は、「戦後法律上は平等、しかし、慣行は不平等」と説明された。性役割の「慣行」は私たちの奥深く内面化され、身体化されている。女性は誰かに命じられて不払い労働をしているのではなく、自身の当然の役割として自ら進んで行うのである。昔話で「おばあさんは川に洗濯に“いそいそと”行く」のである。上野先生によると「不払い労働」の発見に猛反発したのは他の誰でもない、「主婦」自身であったということだ。主婦と呼ばれた女性たちは、家事は不払い労働ではなく、家族への愛情、「愛のために」やっていると主張したそうである。
 社会の抑圧構造は、その社会、文化、風土にどっぷりはまって身動きできずにいる当事者にはかえって見えにくい。私の場合、母が離婚後一気に貧困に陥ったため、自分は一生稼ぎ続けようと決意した。結婚したが子どもは作らず、教職を経てソーシャルワーカーになった。振り返ると「家事をするより外で稼ぐ方が偉いんだ」というマインドが自分の中にあり、「男は仕事・女は家庭」の「男」の方(稼ぐ方)にいないと社会では認められない、自分には価値がないと感じていた。これは、「川に洗濯に行くおばあさん」とは真逆の方向ではあるが、見事に洗脳されていたことに他ならないではないか。育児や家事に追われて仕事をするにも制約の多い友人に比べ、自分は「男並み」に働けることでマウントを取ろうとしていたのであろうか…。「慣行」に洗脳された過去の自分を振り返っていると何だかどんどんネガティブな気分になってきたので、これ以上掘り下げないことにする…。
 以上のような約30年前からの状況と比べ、現在の若い世代は全く違うステージに立たされている。女性は家事も育児もフルタイムの仕事もこなす(しかもお洒落)、スーパーウーマンが理想のモデルとされるそうだ。また、「ジェンダー平等」が流行語大賞となるなど、表面上は社会が大きく変化したように見える。
しかし、そうした万人が目指すことのできない「理想のモデル」や、実質を伴わない「ジェンダー平等」の空疎な掛け声に私たちはもっと疑問を持ち、異議を唱えるべきではないか。これらがどこまでも男にとって都合の良い「慣行の上書き」にならないように。「何となく素敵」な理想のスーパーウーマン、ジェンダー平等。それが社会の無言の圧力となって、現実とのギャップに苦しみもがき泣いている人が一人もいない社会になるように。