1月2月は、各地で幼稚園から大学までさまざまな受験が行われています。そのほころびともいうべき悲惨な事件が続いて起こりました。

 受験といえば水戸黄門の印籠で、それが何にでも通用するのも、考えてみたらおかしなことです。子どもが受験だからといえば、何かの役員を選ぶときも、何かイベントの予定を組む時も「あ、そう。大変ね、がんばってね」と、たいていのことは免除されます。そして、このコロナ禍では、私立受験を控えた子供が感染を恐れて学校を休むことも、外からウイルスを持ち込む恐れがあるから会社勤めの父親が家に帰らず勤務先近くのホテル住まいをすることも、当然のことのように報じられます。

 受験に失敗したら、その子どもの人生はもうおしまい、のような重苦しい空気が日本中に漂っているのではないでしょうか。いろんな場面で大学受験を代表とするさまざまな「受験」を首尾よく潜り抜けてきた人と、いくつかの「受験」場面でそれらがうまくいかなかった人との格差がどんどん広がって、どんな立派なことを言ったって、いい大学に入っていい仕事につくことができなければ負け犬になる、と周囲も考え、本人もそう思い込まされていく。理想論や倫理観などきれいごと言ってる暇があったら1点でも多くとれるよう頑張りなさい、そういう風潮だから、その格差の優位な方につくために、つまり受験に勝つためには家庭生活や学校生活を犠牲にすることなど少しも厭わない。そういう社会だからこそ,起きた2つの事件だとわたしは思います。

 ひとつは17歳の高校生が東大の前で3人を傷つけ、もうひとつは19歳の共通テストの受験生が、問題を外部に送って解答を求めたカンニング事件。

 動機やその行為のプロセスなど、マスコミ報道以外に詳しい真実があるかもしれませんので、限られた情報に基づくわたしの小さな嘆声になりますが、

 なんと浅はかなことをしてしまったの、
 これであなたの開かれるはずだった将来はぐっとせまくなってしまったのではないの、もうちょっと、自分の将来のことや家族のことなど考えて、どうして思いとどまらなかったの、

 と、本当に可哀そうになります。なんとしても目先の受験に成功しなければおしまい、と思いつめた末の短絡的な行ないだと思うからです。だからといって、人を傷つけたり、カンニングをしたりするのを許そうとしているわけではありません。罪は罪として責めるべきです。

 その上で、やはり、罪を犯すことを抑える力よりも、受験に成功しなければならないと思わせるプレッシャーの方が強かったことが哀れです。

 こうした罪を犯させてしまったのは、受験が人生を決定するという、いわば受験決定論のはびこる日本社会です。仮に志望した大学に入れなかったとしても、17歳や19歳にはまだまだいろいろな道があるはずです。本人が初めに志望した道よりもっといい道が開けるかもしれません。受験に何回か失敗したとしても、それであなたの人生が決まるわけじゃない、あなたの将来には可能性がいっぱいあるんだよと、言い切れなかった大人自身の絶望感と閉塞感が生んだ悲劇だとわたしは思います。

 この2人はそういう社会の犠牲者ともいえましょう。「受験成功―エリート人生ー—格差社会の勝者」という図式の犠牲者です。格差社会がなくならない限り、この図式が生き続けて、若者たちを苦しめ続けるのです。

 この2つの事件を伝える報道のことばで気になったことがあります。カンニング事件の新聞の見出しに、おやっと思いました。1月28日朝刊、どれも東京版です。

1.19歳少女出頭        毎日新聞 1面
2.19歳女子大生出頭      東京新聞 1面
3.問題流出 19歳女性出頭    産経新聞 1面
4.19歳女子大生出頭      読売新聞 1面
5.問題流出 19歳受験生出頭  日本経済新聞 43面
6.共通テスト流出 19歳出頭  朝日新聞 1面
 
 その前日の夕刊では『読売新聞』だけが記事にしました。
7.受験生が香川で出頭     読売新聞1月27日 夕刊1面
 
 1~4.の「19歳少女」「19歳女子大生」「19歳女性」は、人物の性別をはっきりさせる性別明記のもの、5.6.7.は性別不記載のものです。1.の19歳が「少女」というのはどうかと思っていたら、この新聞はそのあとの記事では見出しのことばを変えました。

8.共通テスト流出 出頭の19歳  毎日新聞 1月28日夕刊7面
9.女子大生 シャッター音警戒か 毎日新聞 1月9日 27面

 さすがに「少女」はやめましたが、8.では性別不記載、9.では「女子大生」と性別明記です。

 ついでにネットのニュースも見てみました。

10.Yahoo!ニュース 1月29日 「とんでもないことをしてしまった」共通テスト問題流出 出頭した19歳供述

 ここでは性別不記載です。

 以上は見出しのことばに限っています。

 ここでわたしが言いたいのは、性別を明記しなくても通るのなら――実際のところ5.6.7.8.10.は不記載で通っています―ー性別をわざわざ書く必要はないということです。事件を起こしたのは共通テストを受験した「受験生」です。「19歳の受験生」です。それがたまたま女性だったのです。現に東大前の高校生の記事では、どこにも「男子高校生」「17歳男性」など男性を明記することばはみられません。男性が事件を起こすのは普通で、女性は珍しいから「女性」と明記するのだという反論も聞こえそうです。いえ、それなら、「女性」を明記することで「女性なのに」「女性らしくもなく」「女性の犯罪行為はもってのほか」などの声も引き起こすのだと言いましょう。犯罪はどちらも悪いのです。男だから悪い、女だからいい、ということなどないのです。人間としてしてはいけないことなのです。

 あえて大きい文字の見出しで、事件を起こしたのが「女性」と強調することに、マスコミに残るジェンダー不平等の匂いを嗅ぎつけるのです。