
北京オリンピックが終わって、いまさらと言われるかもしれませんが、またパラリンピックも始まると目にする光景ですので、ちょっと聞いてください。
オリンピックのジャンプ競技やスノーボードの競技を見ていて、何とも白けた光景に目を覆いたくなりました。ジャンプ台から飛び出して着地するまでの斜面とその先だけは白く雪らしいものがあるけれど、周囲は全く雪がない、おそらくこの大会のために造られた巨大な構造物であるジャンプ台の周囲は、まるで秋の景色です。あたりには黄色い土と枯れた草地のようにみえる平面やいくつかの建物が見えます。でも、建物の屋根にも地面にも、全く全く雪がないのです。ほんの少しの白いものも見えないのです。選手たちが滑る斜面にだけ人工雪が白く光っている、これって冬のオリンピックと言えるのでしょうか。
その他のアルペン競技や、クロスカントリーの広く長いコースの雪も、ほぼ人工雪とか。一面の雪景色を繰り広げ、選手たちに滑降を競わせたのは、ヨウ化銀を詰めたロケット弾100発以上も打ち上げて降らした「雪」だったのです。
ヨーロッパのスキー大会などでも人工雪が普通になっているとかの記事も読みましたが、だからと言って人工雪だらけのスキー大会でいいのでしょうか。そんなに雪がないならスキー大会はやめればいい、雪があるところでだけ開けばいいのではないですか。
ある都市が冬の大会に名乗り出て決まったとします。ところがあいにく雪が降らなかった、そのときは、ごめんなさい、今年は雪がないのでできません、とすればいい。選手も関係者も、雪があってのスキーなんだから、そういう時はその年のオリンピックはやめましょう、と受け入れる。そしてスキー競技というのは雪しだいで決まるものという本来の考え方に頭を切り替え、それに慣れるようにすればいいのです。
こういうことを言うと、それはオリンピックの現実を知らない愚か者の夢物語と言われるでしょう。でも、それが夢物語と言うなら、オリンピック自体の本来の姿を思い返してほしい。現在のオリンピックは、スポーツと平和の祭典という本来の姿から大きく逸脱しています。規模が大きくなりすぎて、ものすごく商業主義的になって、アメリカのテレビの放送時間と合わせてマラソンの時間が決められたり、酷暑の夏に東京で開かされたりしています。オリンピックを「開くこと」がすべてに優先する開会至上主義がはびこっています。そのためになんでも突貫してしまいます。コロナ感染の真っただ中に東京で開いたり、雪のない中国の都市で、巨額のお金をつぎ込んでひたすら雪を降らせてたくさんの競技を実行したりします。メダルの数を競うという、オリンピック精神とはまるで反対のムードの中、選手たちも、その人生すべてがオリンピックにかかっているかのようなプレッシャーに喘いでいたのではないでしょうか。
毎日毎日の目まぐるしい変化の中で、私たちは忘れてしまいがちです。人工雪でもちゃんと無事に終わったんだからいいじゃないの、と現状を認めてしまいそうです。
でも、あの雪のないジャンプ台の白々しい光景は忘れないようにしたいと思います。人工雪はあくまでも代替品です。科学技術の「進歩」で代替品をよりよくしようというのではなく、雪が降らなくなったのはなぜかを考え続けたいと思います。そしてオリンピック自体もこのままでいいかどうか疑問を持ち続けたいと思います。
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