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十人十色のヒトを尊重し合う、それを忘れる怠慢を反省する 荒木菜穂
2011.06.24 Fri
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前回リレーエッセイの宇都宮さんの言葉にあった「失ったもの」を取り返すという「十人十色」の人間の営みは、その人以外の人々や社会が、その営みにたいし敬意を持って認めてこそ成り立つものであると感じます。少し前ですが、矢野久美子さんの「ケアの座標軸」の中で、震災、そして原子力発電所の事故と我々はどう向き合っていくべきかについて丁寧に述べられていました。
いまだ不安な気持ちの続く、震災や原発事故の最中を生きる中で、人々の他者にたいする視線が、「十人十色」な生き方や価値観の人々をカテゴリー化し、分断する方向にあること。そして、私たちが、今、この状況において、誰かについて語り、誰かと関わることとはどういうことかという自問について今回は書かせていただきたいと思います。
今回の震災、特に原発事故に関して、私が気になってしかたなかったのは、水や乾電池の「買占め」のニュース、放射能の影響が考えられる地域の農産物、海産物への「風評被害」のニュースでした。実際に、大手メディアで報道される放射能の大気中の拡散や飲料水の汚染、海洋汚染の情報の量や正確さは十分ではないと感じます。
だからこそ、不安になり、安全だと思われる食料をできるだけ多く欲しいと思う人もいるでしょう。私は関西在住なので、停電の経験はありませんでしたが、突然日常の生活を大きく変えられる不安もまた計り知れないものであり、乾電池などを求める気持ちもわかります。そして、それらの「買占め」が、「念のため」ではなく、一刻でも早く物資が必要な被災地の方々を不自由にするものであったことも理解できます。同様に、放射能汚染「されているかもしれない」農産物や海産物が売れないという「風評被害」は、農業、漁業をされている方々の生活を脅かすものであり、実際、震災前に水揚げされた海産物の加工品までもが避けられているという理不尽な話も聞きます。
これらの「買占め」や「風評被害」は、物資が届かない被災者と買占めをする都会の人間、原発に近い地域の農業や漁業従事者の方々と風評を信じ被害を広める都会の人間との関係で起こっている問題として議論されがちですが、それは、問題の本質から目を逸らす危険な構図であると私は思います。津波や自身の被災者の方々、原発事故の影響を受けた農業、漁業などの方々、震災や停電、放射能の正確な情報が得られず不安に思う方々、すべて被害者であり、被害者同士がいがみあう構図は何としてでも避けなければならないと感じます。
怒りの矛先は、停電や放射能の情報、それにたいする対策を怠った政府や電力会社にたいし向けられるべきであり、より「批判しやすい」他者に向けられるべきではありません。東電の社長が訪問した際、怒りの声を向ける原発事故被害者の方々へのバッシングもまた、何らかの形で電力不足(本当に電力が不足するのかということには異論も見受けられますが)や放射能の「被害者」である「バッシングの主」からの、直接の原発事故被害者に向けられた虚しい怒りに思えます。
さらに、今回の原発事故をきっかけに盛り上がっているとされる脱原発の気運は、原発事故の被害に苦しんでおられる福島の現状をないがしろにし、それを踏み台にした、他の地域がエゴではないか、脱原発運動対、福島の人々、という構図が作られることにももどかしい思いがします。
今不安な気持ちの人々は、大きな力をバッシングするより、より楽なバッシングの対象を無意識に探してしまうのでしょうか。
原発の問題は、特に、今自分にとって得か損か、という問題で議論してはいけない問題であり、労働者や事故被害者など、より多くの人がそれによってどのような深刻な影響を受けるかに想像を生み出さないといけない問題であり、そういった人間の命や人権が関わる問題を、単純な天秤にかけることでより深い思考を停止させることは恥じなければならないと思います。
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毎日新聞2011年6月11日朝刊の投書欄(大阪)に、「学者利用し世論誘導 またか」というタイトルの文章を見つけました。この投書では、1956年に公式確認され、今なお問題が続く水俣病の被害や、原因物質を垂れ流した企業が免罪される様子が、福島原発の事故を取り巻く現在の状況と重ね合わせられています。
現在に通じるこの問題とは、アカデミズムが「大きなもの」を免罪し、問題の本質が隠され被害者の人権が等閑視されることの問題です。水俣病を取り巻く関係性においても、『ノーモア・ミナマタ』(編集:北岡 秀郎・水俣病不知火患者会・ノーモアミナマタ国賠訴訟弁護団)などに見られる当時の状況からは、地元に恩恵をもたらす原因企業に同調する住民と、水俣病の原因解明を求める住民との間には対立が生じ、そのことは企業に向かう怒りを分散させていることがわかります。
このような構図は、今の時代さらに範囲を広げ、力を増していると感じます。社会というものは、その中に生きるそれぞれの人々が、それぞれに、それこそ「十人十色」に日常生活を営み、他者と関係して生きてきたはずでした。不安が大きくなった社会において、敵対関係のカテゴリーが作られてしまい、権力や、その問題の本質を見て見ぬふりされるというのは悲しいことです。
そうならぬよう、我々には、意識して、多様な他者や社会構造への想像力を持つ義務があります。
さらに、この社会は、男性と女性の生き方を「常識」として決め付け、押し付けてしまうという愚かな側面(あえて言わせていただきます)を持っています。特に男女の性関係において、男性が性に奔放でありパートナーを傷つけるような振る舞いをしても多くの場合「許すべきこと」とされ、その男性が関係した女性同士のいがみあい(例えば妻と愛人など)の問題とされてしまう一連の陳腐なストーリーは、インターネットの質問サイトなどでも「花形」のテーマになっています。
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最近、女性が、女性であるという理由だけで「嫌われる」社会を自明視せず、その問題性を論じた著作(『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』『「オバサン」はなぜ嫌われるか (集英社新書)』など)が相次いで刊行され、そのような現実を生きる一人として、大変、心強く感じています。繰りかえし論じられている日本社会において昔から続く「オンナ嫌い」の感覚は、女性が問題であったから批判されるという文脈ではなく、本当なら男性に責任が帰せられるはずの問題が誤魔化されるという無意識の力関係の中で生じているといえます。
男女の責任がダブルスタンダードな価値観で判断され、有無を言わさず「女性であるから必ず悪い」という昔ながらの感覚は、結果として、もし、ジェンダーの力関係の下での問題において男性に責任があった場合でも、女性同士までもが共闘できず嫌いあうという構図を生みだすもとになっています。
今、もめていることの問題の責任はどこにあるのか、それがすぐに決められるものでなくても、どういう構造で起こっているのか、まず「誰」や「どこ」を問題にしないといけないのか、自分は、勝てそうもない相手、難しそくて考えることさえしんどい相手に怒りを向けることを避け、楽な相手を攻撃していないか。私自身も常に自問しています。
なぜなら、そういう構図を見たとき、とても気持ち悪いし、その構図を疑いもず、わかりやすい相手を攻撃している人にたいする人間不信でモノゴトが終わってしまうのはしんどいからです。
次回「感傷にからめとられないために」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから
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