私がオペラを観るようになったのは2010年の研究休暇のときで、オペラのDVDが3000円くらいで買えると知って、どんなものかと注文してみた。最初に観たのはモーツァルトの『フィガロの結婚』で、ストーリーが複雑すぎてなかなかついていけなかったが、たくさんの女に手を出す伯爵を、最後に伯爵夫人が赦すことで幸福なフィナーレとなっていた。次に、ジャケット写真に惹かれてモーツァルト最後のオペラ『皇帝ティートの慈悲』を買ったが、ここでは皇帝であるティートが、自分を裏切り殺害しようとした家臣で親友のセストをはじめ、あらゆる人を即座に赦す。ひたすら赦し続ける彼の前で、世界は歪み崩れていく…。
モーツァルトのオペラは(いやそもそもオペラというものは)音楽は美しく素晴らしいが、ストーリーは矛盾だらけで荒唐無稽、とよくいわれるし、じっさいそうなのだとも思う。でもオペラにはまっていろいろな作品を見ていくと、モーツァルトのオペラの重要な主題が「赦し」にあるのがわかってきた。神との約束を破ったクレタ王イドメネオを「天の声」が最後に赦す『イドメネオ』。自分を欺いて愛する女性と逃走しようとした仇敵の息子を太守セリムが一方的に赦す『後宮からの逃走』。「赦し」からモーツァルトのオペラをとらえ直したらどうなるだろう。オペラにもモーツァルトにも詳しくない私が、どういうわけか、こんなことを考えて書いたのがこの本である。
『フィガロの結婚』は台本作家ダ・ポンテとモーツァルトが共作したオペラだが、彼らにはあとふたつ作品がある。ひとつは、女たらしの貴族ドン・ジョヴァンニが地獄に堕とされる『ドン・ジョヴァンニ』。もうひとつは、二組の婚約者に老哲学者ドン・アルフォンソが相手を取り替えて誘惑するゲームをさせる『コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)』。このふたつの作品に「赦し」はない。だが、棄ててきた花嫁ドンナ・エルヴィーラの赦しも殺害した騎士長(の石像!)の赦しも拒絶するドン・ジョヴァンニは、「赦し」がつくりだす世界から自由な気もする。スワッピング実験にまんまとひっかかり、全員が罪を犯してしまった『コジ』のラストは、「不完全なもの」として平等な人間同士が赦し合う世界であるようにも見える。
そして、「赦し」は絶対的な権力を生むものでもある。ティートがすべての人を無条件に赦すとき、罪を犯した人々はその固有性を剥ぎ取られ、じつにみじめな存在になる。『魔笛』に登場する司祭ザラストロの神殿は「赦し」によって統べられているが、それは「赦す男たち」が支配するホモソーシャル共同体ともいえるだろう。ザラストロと対立する夜の女王は「復讐」でそれに抗うが、最後に滅ぼされる。だが、女王の娘パミーナは囚われの身から自分の力で脱出し、「夜と死を恐れない女」に成長して、王子タミーノを導き「赦し」とも「復讐」とも異なる新しい世界を開いていく。ここには、「慈悲のポリティクスからの自由」の可能性を見出すことができるのではないか…。
…というのは、初心者の私の勝手な深読みかもしれない。とくに、いまの紹介だけでも、女性差別的でミソジニーともとらえうる表現満載のモーツァルトのオペラをこんなふうに読むのはとんちんかんかもしれない。ただ、ジェイン・グラヴァー『モーツァルトと女性たち』が詳細に明らかにしたように、多くの女性と協力して芸術を創造し、彼女たちと精神的に支え合っていたモーツァルトが、繊細な「女性への敬意、共感、鋭敏な理解」の持ち主だったことも確かだと思う。もしこの本を読んでくださる方がいたら、モーツァルトが描いた女と男のあいだの愛と赦しの世界を、なかでもパミーナが切り開いた「女が男を導く」世界を、女性の立場からどんなふうに感じられるか、教えていただければとてもうれしい。
◆書誌データ
書名 :『慈悲のポリティクス――モーツァルトのオペラにおいて、誰が誰を赦すのか』
著者 :奥村隆
頁数 :203頁
刊行日:2022/1/15
出版社:岩波書店
定価 :2,420円(税込)