ここ最近の報道で「世界はどうなる?」とか、「世界全体が変わる」といった表現を見聞きする度に、この「世界」という言葉に何かひっかかるものがあり、それがなぜだろうと考えていた。

 そしてふと、以前WANで書かせていただいていた連続エッセイ『世界の周縁から、小声で叫ぶ』(休載中)のタイトルにも「世界」という言葉を使っていたことを思い出した。

 この連続エッセイでは、グアテマラ、メキシコ、ガーナのことを書いた。今回この「世界」という言葉を聞きながら、エッセイでは触れていないが、これらの国での心に強く残っている光景を思い出した。

 グアテマラの辺境にある村を訪問した際、一人の母親が、栄養失調で死にかけている自分の子どもを前に、病院に連れていき治療を受けさせるか、あるいは見殺しにしてお墓に埋めるか、どちらの出費が少なくすむのか考えたあげく、後者を選ばざるを得なかったという話を聞き、言葉を失った。

 メキシコの電気も水道もない山奥の小さな村で、7、8歳の女の子と道端に座って話をしているとき、その子がちょくちょく何かをつまんで食べていることに気がついた。それで空腹を満たしているような感じだった。しばらくしてその子が自分の頭髪から虱をつまんで食べているということに気がつき、思わず唾を飲み込んだ。

 ガーナの村では、年中光も入らないような暗い湿った土間で、泥だらけのずだ袋一枚の上で、長い間動けずに寝ていた老人の床ずれした背中を見て、すぐに目をそらした。

 わたしが訪問したことのない多くの国や地域で、これよりももっともっとひどい状況のところがあることは容易に想像できる。経済的、物質的に貧しいだけでなく、長い間そして今も続く内戦や紛争で心も身体も人間関係もズタズタにされた世界があることも。

 このような世界も「世界」の一部であり、以前から存在し、今現在も存在する。そしてこれからも・・・なのかどうかは私たち次第だろう。

 ここにあげた母親や女の子や老人は、今回の「世界」情勢をどう見ていて、どう変わると思っているのか、そしてそれが自身の生活にどう影響すると思っているのか。「世界」という言葉を見聞きするたびに、彼女たちの顔を思い浮かべながら、想像している。

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「世界の周縁から、小声で叫ぶ」<https://wan.or.jp/general/category/rim