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女子の特権!?地道に続く「成長」の楽しみ 荒木菜穂
2010.10.29 Fri
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巽さんのお話にあった少年と大人の女。男の子も女の子も、それぞれに人間として成長するはずなのに、なんだか物語の中ではその意味合いが違ったりするもの。フロイトがどうとか、ラカンがどうとか、専門であれ趣味であれ、精神分析に詳しい方なら、もう飽き飽きしたテーマなのでしょうけれども。私の興味の中では、そういう話も、後付け的に、そうなんだー、と関心としてのスパイス。成長物語って、手垢のついた言葉だけど、まあ、好きなお話たちの中から、記憶をたどってみましょうか。
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去年の最初のリレーエッセイでも、ケン・ラッセル監督+ロジャー・ダルトリー主演の映画『リストマニア』を取り上げたけれど、同じく、というかこのペアではこっちのほうが有名、1975年の映画『TOMMY』。ピート・タウンゼントによるロックオペラの原作、加えてケン・ラッセル流の演出、なかなか解釈が難しい、というか、簡単に解釈されることさえ望んでいない、だからといってお高くとまっているわけでもない、ベタな言葉で言えば、心で観ろ、感じろ(代表的な劇中歌にSee Me ,Feel Meってのもあるし)ってな作品なのかもしれない。物語は単純、「あること」をきっかけに、見えず、聞こえず、話せず、の状態になった少年トミーが、ピンボールの達人となり、成功し、また別の「あること」をきっかけに、見えて聞こえて話せる状態に戻り、新しい自分を生きる、というような話。最初の「あること」は、戦争で生き別れた実の父親が母親の後の愛人に殺されるところを目撃する、という出来事で、なんとなくフロイト的な「父親殺し」を髣髴とさせるし(というかその経験の失敗か?)、その後トミーは母親に支配され続ける。彼が常に鏡の前に立ち、唯一「見える」自分の姿とのみ対話する様子はラカンぽい。そういう、確信犯的に散りばめられた精神分析的要素も、そういう関心のある人にとっては魅力的なのだと思う。結果的に、知覚的な能力も戻り、母の支配から逃れ、父=神と同一化するように、高い山を登っていくラスト。幻想的で感動的なシーンなのかもしれないけれど、これが成長の帰結だとしたら、お粗末すぎる。自分を束縛する「母」から逃れられても、結局男は幻想の中でしか生きられないってことか、って。ほっとけば、次には、自分の中の幻想を実現させるため、女を支配しようとするんじゃないかって。そこまで描かれていないけれど。フェミ的妄想だけれども(笑)。
この映画には、もう一人、サリーという少女が登場する。サリーは、「障害」を克服した奇跡から、新興宗教のスター的な教祖となった青年トミーに憧れる少女。そりゃ75年当時のロジャー・ダルトリーかっこいいからね!・・って話じゃなくって、いつか私が大人になれば、トミーは私にふり向いてくれるんじゃないかと夢見る。けれど、一般人と「スター」の距離を思い知り、大人になって、普通の結婚をして、時々あの頃のことを思い出す、という人生。とっても現実的。というか、幻想と現実が別物であると気づきながらの成長。
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どっちが幸せかというと、きっとそういう価値観では比べられないのかもしれない。こういう二つの成長のイメージは、往々にして男と女と違いの下、現れる気がする。長尾謙一郎のコミック『ギャラクシー銀座』での主人公竹之進は、「見えず聞こえず」となることで自分の殻に閉じこもったトミーにたいし、10年以上自室から出ない、文字通りの引きこもり。竹之進の様々なアバンギャルドな妄想や、サブキャラたちの独特の破天荒な日常(途中まではただのナンセンスギャグ漫画かと思ってしまう)の、薄明かりの中に見える映像のような断片が、最終的には、主人公、母親、父親の物語につながっていく。ここでは、母親が父親を殺す。理由は、「だってぇ女の子だも~ん」。プレイボーイの夫(一発屋の歌手という設定)、男の身勝手が許せない、でも男は自分だけのものにしておきたい、「男はみんな終身刑」な「乙女心」だというわけです。単純に読めば、「女って怖い!」って話で済むのでしょう。でも、そこには、『TOMMY』よりもっと複雑な成長の物語がぼんやり浮かび上がってくるようなこないような。余談ですが、The Doorsの1960年代の名曲The Endのフレーズ”This in the end”が母親の口から語られるシーンは、この曲の、父を殺し母とファックするフロイト的な物語を彷彿とさせます。最後、殺人がばれた母親に銃を向けられた主人公は、このまま自分も殺されることを選ぶのか、逆に母親を殺すことを選ぶのか、その選択を、死んだ父親の幻影の声に導かれながら、決断します。
ここでも、主人公が母親から自由になることが一つのゴールですが、その後出会う「誰か」は、父なのか、神なのか、それ以外なのか、はっきりとは描かれていません。しかし、結局、何か大きな力と出会い一体化することが、成長。
「何か」を乗り越えることは悪いことではないし、夢があるかもしれないけれど、私にはどこか解せない。それより、「何か」と折り合いをつけながら、地道に成長していくほうが人間的なんじゃないの、と思うのです。もし、これらが、「男性性」の物語として解釈されうるのであれな、なおさら、「男性性」って結局、しょうもないんじゃない、って思うのです。
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同じく引きこもりの、今度は主人公が女の子の物語、映画『転がれ、たま子』。山田麻衣子ちゃん演じる主人公たま子は、部屋を出るのは、大好きな甘食とミルクを買いに行く時のみ。昭和レトロちっくな可愛い部屋を一歩出たら、何が起こるかわからないから、防御のためにお洒落な鉄カブトをかぶる。でも、彼女が唯一心を許すのは、別居する父親で、彼の工場(鉄カブトも父親の作品)の壁に、2人で延々とカラースプレー「丸」を描き続ける場面では、素敵でポップな父娘関係が見られて幸せになります。
この、「丸」のイメージは、この作品でも全編通じ登場するのですが、なぜか先の『TOMMY』にも多く見られます。トミーの場合、円形の鏡のイメージで、それを割ることで、母親や過去から自由になることの象徴として登場するのですが、「たま子」の場合、それは、破壊して自由にするための「丸」ではなく、タイトルにもあるように、おそらく、転がり変化し続ける人生の象徴。大好きな甘食を焼いていたパン屋のおじいちゃんが入院してしまい、自分でパンを焼こうと決心し、部屋を出て、たま子の人生は変わっていきます。パン屋での修行が終わり、無事美味しい甘食を焼けるようになったたま子は、帰ってパン屋のおじいさんにそれを報告し、「たまちゃんはたまちゃんの甘食を焼きなさい」という言葉をもらいますが、結局おじいさんは死んでしまいます。有体な成長と再開の感動で終らず、「パンなら自分で焼けるもん!」という、別れの悲しみからのたま子の叫び声とともに、彼女の人生は、転がりながら続いていきます。
大きな変化や破壊とともに成長があるのではなく、様々なものと折り合いをつけながら、地道に続いていく人間の毎日、それが成長。たまたま紹介した作品では、女の子の成長がそれに当てはまっていましたが、きっと探せば男の子の成長にもこういう物語もあるのかもしれません。ハリー・ポッターなんか、密かにそうなんじゃないかと思ったりもします。でも、それらの「男性の物語」は、「男らしさ」「男性性」という言葉で説明される成長とは、少し違う感じがします。考えてみれば、女の子の成長のモデルというものは、男の子よりも少ない分、自由な未来があるのかもしれない。もう男女という必要もないのかもしれないけれど、「それでも続いていく日常」としての成長物語のモデルが、それに該当すればいいなあと思ったりします。成長が自立とセットの言葉なんだったら、自立って。きっと、どうやって人と関係していくかを考え続けられるようになること、だと私は思います。
次回「欠損を抱えて生きる」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから
カテゴリー:リレー・エッセイ