エッセイ

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「労働」概念は変化したのか?  伊田久美子

2011.12.01 Thu

 11月27日、上野千鶴子さんのコーディネートで、竹中恵美子さん、大沢真理さん、宮地光子さん、赤羽佳世子さんという、代表的フェミニスト研究者と労働問題の第一線で活躍されているアクティヴィストによる、クレオ大阪10周年記念シンポジウム「私の選択がつくる未来〜生き方・働き方のあした〜」を聞きに行った。万障繰り合わせて参加できてよかったと思う。それは新たな課題を自覚できる機会であったからでもある。つまり率直に言えば、興味深くも釈然としない思いの残るシンポジウムであった。

 誤解を招かないように、あらかじめ述べておくが、シンポジウムに先立つ大沢さんのブックトーク講演はたいへん勉強になった。またシンポジストのみなさんのお話もいずれも面白かった。司会の上野さんはいつものとおり限られた時間を巧みに仕切りつつ、ぐっと来る発言などもされた。この日は大阪府市首長選挙投票日で、「クレオ大阪10周年記念日が廃館記念日にならないことを祈ります」とおっしゃって笑いをとっていたが、周知のように、すでに笑える状況ではない。しかしこれらは想定の範囲内の面白さだったので、上野さんのブラックジョークを除いて、この私的感想ではとくに要約しない。疑問に思ったことのみを述べることにする。論点はいくつかあるが、ここではひとつにしぼる。

 当日の登壇者の大部分は、フェミニストが論じてきた決定的に重要なテーマのひとつである「労働」概念の批判に触れることはなかった。立場のまったく異なる連合幹部のみなさんとも経団連会長とも、この点では齟齬は生じないほどに、たとえロクに支払われない非正規労働が含まれていようとも、シングルマザーの貧困に触れられようとも、この日の「労働」は市場のペイドワークのことであった。この場に竹中恵美子さんがおられなかったら、アンペイドワークに言及する人はいなかったのである。しかも竹中さんの言及は明らかに「浮いて」いた。ペイエクイティと子ども手当についてのご指摘はあまりに時間が不足していたが、これまた重要な論点であった。生活保障は企業ではなく国家が担うべきであるという指摘は、労働運動のあり方の根本的見直しを迫るものである。時間の制約の中、言うべきことを言おうとされたのだと思う。

  竹中さんがおっしゃりたいことのほんの一部しか説明できなかったのは残念である。この二つはいずれも、フェミニズムの視点から「労働」および「労働運動」の根本的転換を迫るものだからである。

  私は70年代以降のフェミニズムは、以下の2点を明らかにしたと思っていた。ひとつは、稼ぎのない妻の利害は「稼ぎ手」である夫と一致しているように思い込まされてきたが、それは必ずしも一致しないこと、もうひとつは、「主婦」と「働く女」の利害は対立していると思い込まされてきたが、実はけっこう一致している、ということである。ミクロな権力関係を含んだ「家父長制」と、一心同体とみなされてきた家族の中の仕事を労働であると主張した「家事労働」という二大キー概念は、これに呼応している。さらに言えば、ジェンダー論は労働/非労働の二項区分の自明を問い直す画期的ツールだったはずである。

 しかしこの日のシンポジウムを聞いていると、どうやら二つとも私の勘違いだったかのようである。むしろ女の多様化とか女女格差という議論の展開によって、上記の課題の重要性は希薄になっているのだろうか。たしかに70年代の「女」というアイデンティティは今の時代には既に齟齬があるだろうし、この変化は機会を改めて考察したいテーマである。しかしあのとき開けた構造の認識は、運動にとって貴重な相互理解を可能にしたであろう。なぜなら女たちが手探りで模索したフェミニズム理論とは、異なる立場の者、知り合うこともない者との連帯を可能にするためのツールだからである。

 私が衝撃を受けたのは、多くの発言の「主婦」についての辛辣で冷ややかな口調であり、ほんの少し異なる立場への想像力と寛容の欠如であった。「主婦フェミニズム」という批判もあまりよく理解できなかった。

  シンポジウムのタイトルにある「私の選択」とは何だろうか。今どきの「自己責任」を指しているとは思いたくない。

  人生は偶然の押し寄せる海を泳いでいるようなものだ。自由な選択などというのは幻想である。構造と運命によって限定された乏しい選択肢の中で、できるだけマシなようにと選択しているにすぎない。それもどちらが得か十分に計算しつくす余裕も知識も不足した中で、自分個人の利益ではなく様々な関係性に引きずられながらの選択である。そして私たちは子どもがいたり、いなかったり、結婚したりしなかったり、「主婦」になったり、離婚したり、配偶者というのではない誰かと暮らしたり、一人暮らしだったり、無償労働をしたり、稼げる仕事がなかったりするのである。いつでも誰にでもその可能性は開かれている。

  一方、私たちはこの限られた自由の中で社会を変化させてもいる。フェミニズムとはそのような個々の女性たちの動きの集合の名前であろう。そのような「私の選択」であるなら、自分のものであったかもしれない異なる人生への共感こそがフェミニズムの視点ではないだろうか。

 「労働」や「主婦」をめぐる女性センターのポジションにも同種の課題があると思う。これについてもそのうち考えてみたい。

カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:労働 / 上野千鶴子 / 伊田久美子 / 竹中恵美子 / 大沢真理 / 宮地光子 / 赤羽佳世子

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