2013.01.20 Sun
1991年1月17日、香港へ飛んだ。初めての海外旅行へ。
湾岸戦争勃発の日。空港では多国籍軍によるイラク空爆のニュースが繰り返し流れていた。その日、沖縄の嘉手納基地からファントム機が5分おきに飛び立ったと、後に沖縄の友人から聞いた。
ベルリンの壁崩壊と冷戦の終結。90年代初頭、世界は大きく変わろうとしていた。
一方、平凡な暮らしの中で子育てと姑の看護とみとりと舅の世話に明け暮れ、結婚22年目の離婚を経て、40半ばをすぎた私は、これからは一人、自由に生きていこうと思っていた。
初の海外は何もかもが珍しい。香港は雑踏の街だ。湧き出るような人々の群れとそれを支える海産物と農産物の山。ビルの隙間の細い谷間にテントを張った露店がひしめき、急な坂道の市場は賑わいを見せる。洗濯物が高層住宅の窓高く、はためく。宝石店の隣には大衆食堂が並び、路上に竹籠をかぶせられたアヒルがバタバタ騒ぐかと思えば、豚が丸ごと店頭にぶら下がっている。そのまた隣には漢方薬の問屋が連なるというふうに。1997年、「中華人民香港」となる前の香港は、活気にあふれる人々が、たくましく生きる街だった。
一度、旅の楽しさを知ったら、もうだめ。それからは毎年のように旅に行きたくてたまらなくなる。
10日~2週間の気ままな旅。ときには一人で、ときにはツレと一緒に。ケチケチ旅行は格安航空券以外、ほとんどお金はいらない。宿を決めず、現地で一つ星の安ホテルを探す。地元の人が行きつけの店で食べる。知らない街にポツンと立てば何が起こるかわからない。言葉はできない。でも言葉はいらない。不思議と何とかなるものだ。
イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、フランス、イギリス、スペイン、ポルトガル、オーストリア、チェコ、ドイツ、トルコ、マルタ、中国、台湾、シンガポール、そしてアメリカへ。ふらりと一旅行者として。
2001年9月11日。ニューヨーク・同時多発テロ事件を知ったのはスペインから帰国した日の朝だった。映画のシーンさながらの画面に一体、何が起こったのかわからず、目を疑う。3年後の2004年4月、ニューヨークを訪ねる。「グラウンド・ゼロ」の跡地は、何もない空き地に厳重にフェンスが張られ、メモリアルに犠牲者たちの名前だけが記されていた。
2004年3月11日。スペイン・アトーチャ駅・列車爆破事件の報を知る。3年前、南国豊かな植物が生い茂る駅構内を歩いたのを昨日のことのように思い出す。
2005年7月7日。ロンドンで同時連続テロ事件が起こる。地下鉄ピカデリー線、キングス・クロス・セント・バンクラス駅からラッセル・スクウェア駅に向かう列車爆破事件の場所もまた、数年前、その近くに宿をとり、同じ地下鉄に乗り、何度も歩いたエリアだった。
昨日あったものは今日はなく、今日あるものは明日、どうなるのかも定かではない。
旅のハプニングは、いつ、どこで起こるともしれない。飛行機の欠航やエンジントラブル、突然の不時着。列車の故障で長距離バスへの乗り換え。そんなときも、ほとんど乗客に説明はない。道に迷って途方にくれたこともたびたび。でも、いつも不思議なことに無事、目的地に着いたのだ。
そして、ときにはグッドタイミングのハプニングに出会うこともある。
イスタンブール・スィルケジ駅裏の宿の窓から眺めていたら突然、軍楽隊の大音響とともにオリエント・エクスプレスがホームに入ってきた。パリから終着駅イスタンブールへ、年一回の運行に運よく出くわしたのだ。急いで駅へ走ってパシャッと写真を撮る。
ヴェネチアに入ったのも、たまたま年に一度のゴンドラ・レガッタの日。おかげで宿をとるのは大変だったけど、大運河にゴンドラを競うヴェネチアの男たちの心意気と力強さを堪能したものだ。
ポルトガルのポルトでは、ちょうど空中アクロバット飛行、Red Bull Air Raceのショーの当日。時速370キロの過酷なレース。青い空に白い円をクルリと描いて次々と飛行機が飛び立っていった。
パパラッチに追われてパリの地下道で激突死したダイアナ妃の一周忌の日もロンドンにいた。ケンジントン宮殿には花束がいっぱい。ダイアナ妃を悼む人々が続々と訪れていた。
私にとって旅のハプニングとは?
その国の人たちから受ける何気ない親切と、そこに住むネコたちとの出会いにまさるものはない。
どの街角にもネコたちがいた。食堂のテーブルの下に、路地裏の奥に。野良ネコも飼いネコも、そっと抱き上げると、必ず「ニャーン」と応えてくれた。
人もネコも気心は同じ。言葉はいらない。「なんかちょっとわかりあえたかな?」と思うときが、一番うれしい旅のハプニングだ。
連載「旅は道草」は毎月20日に掲載の予定です。これまでの記事は以下でお読みになれます。
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