ゴーシュ晶子 プロフィール
ボストンで不動産エージェントを自営。日本からおいでになる方が到着してからなるべく早く本来の目的に取り組めるように「ジャンプ・スタート・ボストン」と称して家の紹介だけでなく、生活立ち上げのサポートも提供している。
高校時代には交換留学生としてノース・ダコタ州に行く。大学在学中に結婚した相手はインド出身。その後何度もインドに行くうちに、目にする素晴らしい手仕事に魅了されて東京・高輪にインドのインテリア雑貨店、「スタジオ・バーラット」を開く。ボストンに移住したために8年後には閉店したが、これからは更にインドとのかかわりを深めたいと思っている。
◆NPO ボストン・日本商業会 理事
http://www.jbbboston.org/
◆The Boston Pledge は夫が立ち上げたNPO こちらではインドの村起こしプロジェクトに関わっている。
https://thebostonpledge.org/
◆1月1日の引っ越し
インドでは、月回り、方角、時間などに従うと、いろいろ幸運を呼ぶということらしく、物事のはじめに関してはうるさいのです。結婚式が「早朝3時開始」なんていうのは珍しくありません。したがって、私たちの引っ越しは、1月1日朝の4時でした。前日の雪がまだ残る中、家族4人で新しい家に移りました。インドの時間とこちらの時間とどういう関係だか突き止めるのもはばかられたので、首をかしげながらも、まあ一生のうちでそうあることではないし、長い物には巻かれろ!!と、ショールを首にグルグル巻き、白い息を吐きつつ,結構神妙に新年の一日が始まりました。
「一体何の事かしら?」と皆様思われたことでしょう。これは1997年の1月ボストンでのこと。私たち家族が日本からマサチューセッツ州ボストンの郊外に引っ越しをして来て、今年で25年。最初に購入した家は、アメリカがイギリスから独立する戦いの最初の火ぶたを切った歴史のある町、レキシントンにありました。今回はそんな私のボストンでの暮らしの話です。
◆ボストンにやってくる理由はそれぞれ
東京生まれ東京育ちの双子の息子たちは、東京でインターナショナル・スクールに通っていたので、多くの先輩と同様、将来は米国の大学に行くのだろう、とぼんやり思っていた私。そして、インド出身の夫が日本で老後を過ごす、ということはどういうことだろうか、との考えに答えを出せずにいた私。
しかし、待てよ! 米国移住の場合に一番大変なのは「私!」というのは明白。東京で英語を使っていたとはいえ、東京での日常生活のすべては日本語で済んでしまう。年を重ねるごとに学習能力はスローダウンするだろうから、英語の生活に移行するのは早い方が良い。行くなら夫がMBA(経営学修士)を取得したMIT (マサチューセッツ工科大学)があるボストン、と決めたら、その2か月後には、息子たちを連れてボストン空港に降り立っていました。私も息子たちも、ボストンに来るのはその時が初めてでした。日本では、バブルが弾けて、大手金融機関が連鎖的に経営破綻をし始めたときでもありました。
◆ボストン郊外での暮らし
私は東京の高輪で、インドのインテリア雑貨店を経営していて、年に数回はインドに買い付けに出かけていました。ボストンに住まいを移した後も、お店は続けていて、何度かインドで買い付けをして、東京に行く、ということもしました。しかしこの暮らしは時差が大きなネックになり、夫はオフィスをまだ東京に構えていたので私はボストンではワンオペで、主婦もしていて、両立させていくにはかなり無理があり、私のビジネスは閉めることになりました。はたして、私の役割は100%主婦・母 となったわけです。
ボストンの郊外では、とにかく歩いている人を見かけません。歩いてミルクを買いに行かれる範囲内に住む場合がほとんどなく、ガレージから車でブーン、と出かけて行ってブーン、と帰って来るので家の外は歩かないのです。
初めて来たボストンには知り合いもいない、今のようにインターネットもまだ普及していませんでした。親、兄弟、友人もみな東京にいて、六本木に住んでいた私たち。子供たちが学校に出かけて行った後には、とにかく「寂しい」というホーム・シック状態でした。子供も中学生になると親が学校に出かけて行くことはとても少なくなるし、人間関係を作るのはそう簡単ではないのです。
◆主婦としてのリセット
ある程度英語を話すことが出来ても、なんせ自信がない。そうなると、羽をもがれた鳥のような感じ。日本で、私はビジネス・オーナーで、イベント企画・実行、友人のコンサートを開催する、など盛んにやってきたのですが、ここでは「借りてきた猫」のようにおとなしくなってしまったのでした。
「主婦・母」としての役割にリセットした私は、子供の学校の送り迎え、スポーツの試合の送り迎え、重いお買い物(ミルクのサイズも、お肉のサイズもとにかく大きい)、梯子を買ってきて、家の修理。というのは、業者を呼んでもなかなか来てもらえないので、「自分でする」ことに。そして、どうしても誰かに頼まなくてはいけない用件の場合は、電話での「たらい回しの刑」。これはつまり、電話は全部自動音声、やっと「人間」に繋がったと思ってもセクションが違うと言われ、たらい回しになるという意味です。そもそも生身のオペレーターが電話口に出てこないのは昔からですが、やっと誰かが出てきても「それは私の係ではないわ」などとそっけない。あるいは、やっとたどり着いたのに突然電話が切れてしまう、という具合。
たとえば「お醤油はどこで買おう」なんていう簡単な情報を探しあてるのにもずいぶん時間がかかりました。まずは、2畳もあろう大きさの地図を買ってきて、床に広げて自分の位置感覚を身に付けるところから始めました。今のように車にはナビゲーション機能などなく、高速道路では道端に車を止めて道を確かめる、という事が出来ないので、ずいぶん通り過ぎてから行き先を確認して戻ってくる、という事の繰り返しでしたが、おかげさまで色々な道を知ることが出来ました。
◆インドのお姑さんがやってきた
やってきた、というよりも「おいでいただいた」ということですが、母一人子一人の夫の家庭事情。学校の教師をしていた姑は、惜しまれつつ引退。元気だったけれど、80歳になった時には、一人でコルカタに住んでいるのも心配なので、私が出かけて行って、身の回りのものをまとめ、家を賃貸に出し、姑の友人たちを一人ずつ訪問して挨拶をし、一緒にボストンに帰ってきました。姑にとってはインドとは一生の別れになりました。
こちらに住んでいるインドの方々は少なくありません。そして、多くの妻たちは「プロフェッショナル」。科学者、医者、教授などとして、立派な仕事を持っている方も少なくありません。夫は早々と引退しても、まだまだ活躍している妻たちもいるぐらいです。その妻たち、社交に費やすエネルギーも大したもの。しょっちゅうもてなしたり、もてなされたり、着飾る努力も惜しみません。インドに住んでいたら、「お手伝いさん」のヘルプがあるだろうに、ここではそうはいかない。そして、子育てにも手抜きをしないので、賞賛に値する、と私はいたく感心しています。子供が小さい時には、インドからご両親がやってきて子育てに協力しているケースはよく目にするけれど、「お姑さんと一緒に住んでいる」という家族はそれほど多くいません。というのも、車の運転ができないとお姑さんは「子供の家」という牢屋に閉じ込められた状態になり、インドの自宅ではあまりする必要がなかった「家事、炊事」をすることになるので、「時限付きの訪問」となります。また、そう簡単に滞在ビザを取ることはできない、という理由もあるわけです。
さて、それまで、私のお姑さんは、常に騒音のあるコルカタで毎日を過ごしていました。必要以上にクラクションを鳴らす車、油をさしてもらえない路面電車の音。夜になって周りは少し静かになっても部屋の天井でブルンブルン回る扇風機、あるいはやかましいクーラー、といった具合。お姑さんが来た頃に私たちはボストンよりさらに離れた静かな町、コンコードの家に引っ越していましたので、「自分の声が一番うるさい」と言うぐらい、彼女に気に入ってもらえたようでした。
1775年に始まった独立戦争。イギリス軍の最初の攻撃目標は、イギリスからの独立を決意した農民が集まってコンコードに作った独立軍の「武器庫」を攻め落とすことでした。イギリス軍に見つけられた3基の大きな大砲は破壊されたものの、結果、イギリス軍は退陣。コンコードは、ここからアメリカの独立が始まった、という誇り高い町です。そのため、観光客には外せないところですが、いわゆる観光地にありがちな「旗印」や「お土産物屋」などは一切なく、なるべく昔の景色をとどめるように心配りされている瀟洒なところです。
◆不動産エージェントの仕事を得る
さて、お姑さんのコンコードでの生活が落ち着いて、気が付くと、朝、昼、晩、顔を合わせる私たち。そこで、彼女の一言。「晶子は仕事をしないの?」
実は、好きなお料理の仕事はしていたけれど、お姑さんがやってくることになったので、辞めていたのでした。その一言にはじかれて、私は翌日から「仕事」探しに。そして、見つけたのが「不動産エージェント」の仕事。
私が1人で「家探し」をした時には困ったことが多くありました。「ここで何がどう動くのか?」「家はどうやって買うのか?」など、何を知らないかもわからなかったのです。かなり急に移住を決めたので、調べる時間もなかった、という理由はあれど、実際には、調べたくても、私に理解できる情報は無かったという事です。ですから、同じように、日本からやって来るにあたって、情報を得たいと思っている方たちのためには何かできることがあるだろう。そして、この仕事に就いたことで私の毎日は楽しくなったのでした。
日本からボストンの地元の不動産会社に問い合わせても、まともな返事がいただけない、ということをよく聞きます。そもそも、テレビを見ていても日本のニュースが流れてくることはとても少ないのです。日本のことどころか、他の国のニュースが流れてくることもかなり少ないのです。不動産ビジネスでも一番大切なのは「お客様を知ること」ですが、地元の不動産エージェントは、日本の方たちがどんな部屋を探しているかよくわからない、英語でコミュニケーションが取りにくい、海外送金を取り扱うのは煩雑、そして、もう一つのハードルは、日本からおいでになる方にはアメリカでの「信用情報」がないこと。ここでは、ずいぶん前から日本で言う「マイナンバー」にあたるものが、生まれたときから取得できて、その番号に信用情報が書き加えられていく。一体どのぐらい借金があり、返済はきちんと行われているか、という情報がいっぺんに分かる。
だから、賃貸の申し込みされた人の人物像が分かり、それが安心材料になるけれど、そういった情報が全くない「外国人」と知りながら、成功報酬の仕事をするエージェントが少ないのも当然でしょう。また、そもそも「賃貸」の仕事はやりたくない、というのも理由。多くのエージェントの目指すのは「売買」だからです。
不動産エージェントの仕事は「成功報酬」。ある程度経験を積まないとなかなか収入にはつながらないのですが、ここはご存知「移民」の国。同じ国出身者からの情報ほど助けになるものはないでしょう。「希望すること、困っていること」が共通点として理解し合えるからです。お客様と自分の都合で話を進めることができるのも、私にとってはピッタリの仕事でした。働くか、休むかは自分で決める「自営業」と言うのも気に入りました。そして、私が朝に「行ってきまーす」と家を出る理由があったことは、お姑さんにとっても気楽な時間が出来たことだったでしょう。
◆家に関する決断
ある日本の雑誌が2021年度に出した記事によると、日本の既婚者の共働きの率は30代で55.1%、40代では50.2%だそうです。そして、この年代のご夫婦達の7割以上「妻が家計を管理している」ということだそうです。ボストンにおいでになる家族は30-40代前半が多いので、いざ「家探し」となると、家計や暮らしを握っている「奥様」とお話をすることになるのかしら、と思いきや、「夫たち」と話をするほうが多いのです。これは一体どうしてでしょう。私は日本人で日本語を話すのに。
日本からボストンに住む家を借りる場合、70%の方々は実際に部屋を見ず、写真を見て決めます。探しに来る時間も費用も工面するのがむずかしいからです。今は、Facetime通話や、ビデオを送ったりすることでかなり臨場感を持ちながら見ることが出来るので、以前とはずいぶん状況が変わってきていますが、多くのコミュニケーションがパソコン上で行われるからなのか、一歩身が引けている妻達が少なくないのです。今まで家計のコントロールを握っていた、仕事もしていた妻たちが、夫の研究、勉強のために休職、あるいは退職をしてボストンに来てから、味わうかもしれない、私も経験済の「無力感」という落とし穴にはまってしまわないように、といつも思います。
かたや、ご主人たちは 「イヤー僕はクタクタです」とおっしゃる。慣れない職場で、常に「あなたはどう思うの?」と聞かれ、家の支払いのために慣れない小切手を書き、子供たちが持ってくる宿題には脳みそを絞りながら手伝う。日本では残業のために、今までは妻に任せてきたことも含めてこなさなくてはならなくなって、本当にお疲れさまです。
◆日本の経済力
日本のGDPは2020年には、世界第3位ではありますが、第二位の中国と第三位の日本の間には大きなギャップが。購買力平価GDPで行くと、同年、日本はすでにインドに抜かれています。日本のGDPは1990年代半ばからほとんど上昇していないのです。 平均的な日本国民の年収は、私たち家族がボストンにやってきたころと、変わっていない、という状況。一方、米国の物価は2000年から20年の間で50%近く上昇しています(OECD・経済協力開発機構 データ)。また、2021年のIMF(国際通貨基金)のデータによる「一人あたりのGDPランキング」は国の平均的な豊かさを表すと言われていますが、日本は世界30位。19位のドイツ、26位のフランス、27位の韓国、28位のイギリスに続くランキング。
最初に私たちが買った家は、新築でベッドルームが4つあり、ガレージが2台分ある家で、その時の東京の住宅事情からすると「安め」と思えた値段でしたが、その家(すでに売ってしまった)は、今では当時の価格の「2.5から3倍」になっています。この町は、特に公立の学校レベルがとても高く、それを目指して引っ越してくる移民の数が増えているという特別な理由もあるので、ボストンのどこでも同じとは言えませんが、買ったとたんに値が下がる日本の不動産とは随分違います。
2021年の米国の平均賃金は763万円、日本は434万円で、その国々の人件費にそれほど影響されない価格で取引されているIPhone13ですが、日本では約20万円で、平均月収の6割の価格にもなってしまうのですね。ハンバーガーのマクドナルドの「ビッグマック・指数」というものがありますが、2021年には日本では390円。同じものをアメリカで買うと621円だそうで「高いから買えない」という人が出てもおかしくないぐらいお財布事情が厳しくなっているということではないでしょうか。この平均賃金、G7でもイタリアに次いで下から2番目の低さで、気が付くと日本は昔のように豊かな国ではない、ということが明らかです。ここ最近の円安を見て、青くなりませんか?
◆家賃が高い
ボストンはアカデミックな街。Harvard、MITそして、それぞれの医療研究機関だけならず、その他多くの大学があるため、医療関係者もさらに勉強、研究をするためにやってきます。日本からおいでになる方々にはコツコツ努力家の研究肌の方が多く、堅実生活派です。中には自費で研究にやってくる方、あるいは、受け取るグラントでは生活費に足りないけれど、自費を足してでもやってくる方々も少なくありません。ですから、生活は質素に押さえたい、となるのは当然でしょう。
ボストンは東京のように、中心から360度、どこにでも借家がある環境ではなく、借りられる部屋が少ないので、それが賃料に反映されてしまいます。そして、毎年賃料は確実に上昇しています。
私は、賃貸申し込みをするお客様と大家さんの間に立って、「どんなに素晴らしく信頼できるテナントであるか」を説明し、納得していただくのが仕事ですが、「日本からおいでになるテナントさん」というと、一目置いていただけている感触があり、本当に嬉しいことですが、前に述べたように、世界の状況に明るい人々ばかりではないので、まだ「日本は豊かな国」と思っている大家さんは多く、「日本人は高い家賃を払える」と思っておいでです。
日本からおいでになる方はほぼ皆様、といってよいほど「生活態度良し」「お家賃はきっちり払う」「お部屋はきれいにして退去される」「問題になることが大変少ない」と、優良テナントさんになるのですが、前述のように、最近とみに気になるのは、支払える金額が少ないこと。ボストンでは賃貸の場合、保健衛生上の決まりがあり、広さから割り出すと「1寝室には2人まで」となるのですが、「そこを3人で何とか・・・」と言って大家さんと交渉せざるを得ないケースが少しずつ増えているのです。
◆応援したい・しなくてはならない、志を持った方々
日本から研究のためにおいでになるお医者様たちとEメールで話を進めている時に気が付くのは、いただくメールが送られてくる時間。日本では真夜中を回っていることが多いのです。聞いてみると、昼間は診療、夕方は雑用、夜は研究、という具合で、自分の時間が取れるのは夜中過ぎになるということ。そして、その仕事が経済的に正当な見返りをもたらしているか、というと必ずしもそうでもないことも多いようです。あるお医者様は、「自分の子供を医大に行かせる収入はない」と言っていました。これはどこかが絶対おかしいですよね。日本での労働環境と将来性に希望を見つけられず、新しい道を開拓しようと、家族を連れてやってくるあっぱれな方々もおいでです。
このように、仕事を通して、日本の様子を垣間見ることができるのが、この仕事の良いところでもあります。そして、忘れがたいお客様との出会いが多くあります。ある会社からはMITのMBAコース(経営学修士)に留学されてくる方が毎年おいでになるのですが、そこでの学び、そして作った人脈を生かして、どんどん会社の重要部署でリーダーシップを取られていきます。それを拝見すると、とても嬉しいですね。また、某シングルマザーで、子供を連れてやってきた方も上記、MITでMBAを取得されましたが、次のステップを目指すために会社を辞めてきた方でした。その時は、とにかく「応援したい」と思い、私の日本にいる友人に頼んで来てもらって、合計6か月ほど彼女のところに住みこんで食事の支度、子供の送り迎えなどをしていただきました。それもとてもよい思い出になっています。MITを卒業した彼女は、その後、シンガポールを拠点に活躍するようになりましたが、そこにも友人は呼ばれて飛んで行ったりしていました。
◆ジグゾーパズルの面白さ
多くの場合、生活費の3分の一を占める住居費。どこに住み、どんな生活をし、そこで誰と出会えるかで人生はかなり決まると思いませんか?「お部屋を探しているのですが・・・」「家を購入したいのですが・・・」という言葉を聞くと ワクワクする。というのも、家探しにはいろいろな条件、要素、人間関係、そして運というのも関わってくるのです。いろいろなパズルのピースをひっくり返したり、合わせたりして、最後にぴったり「絵」が出来上がる喜び。私にとっては、素敵な方たちとの出会いをも運んできてくれて、私の暮らしを楽しくしてくれている仕事となっているのです。
何を隠そう、私がこの記事を書くことを勧めてくださったWANで「ボストン便り」を始められた河野貴代美さんとの出会いも、ボストンのお住まいを紹介させていただいたことから始まったのでした。御年82歳で再度ボストンにある貴代美さんの母校、シモンズ大学に奨学金留学をして研究を深めにやって来られた、というそれこそ「尊敬の極み」ですが、このことだけでも、この仕事を長く続けて来て良かった、と思うわけです。