この6月15日わたしが敬愛してやまない森崎和江さんが亡くなられました。読売新聞社から追悼文の執筆を依頼されて以下のように書きました。新聞社の許可を得て転載します。


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「おんなの思想」を求めて:森崎和江さんを悼む

まだフェミニズムがなかったころ。女であることと格闘していたわたしは、天上から降りてくる蜘蛛の糸のようなことばにすがった。それが森崎和江さんのことばだった。それは18歳で敗戦を迎えた時、これまでの思想とことばが目の前で音を立てて崩れるのを目の当たりにして、「男のことばを決して信じまい」と決意したひとの、「女のことば」だった。
女の経験や感情を語ることばは、日本語になかった。だからそのひとは、どこにもないことばを求めて詩を書いた。妊娠してもう一つの命を宿したある日、「わたし」という一人称単数形が使えなくなった。妊婦の経験をあらわすことばはどこにもなかった。その「女たちの孤独」は、「百年二百年の孤独ではありませんでした」とそのひとは書く。
朝鮮半島で生まれて17歳まで育った。敗戦でふるさとを失い、自分が占領者の側にいたことを思い知らされた。帰ってきた日本は異郷だった。その異郷の、足をとられる泥のような謎を解こうと、一生涯格闘した。
 石牟礼道子、中村きい子と並んで九州の雑誌「サークル村」にこの3人あり、と言われた女性。谷川雁と出会い、同居するためにふたりの子どもを連れて婚家を出た。炭坑闘争の稀代のオルガナイザーだった谷川が、仲間の性暴力を見逃したことで、彼と袂を分かった。炭鉱町に住みついて、女性の炭鉱労働者たちの聞き書き『まっくら』(1961年)を書き、やがて戦前に海外に身売りされた女たちのノンフィクション『からゆきさん』(76年)を書いてベストセラーになった。
まだフェミニズムがなかったころ。このひとはミニコミのはしりともいうべき『無名通信』という個人誌を出した。なぜ「無名」なのか? 1959年に出た手書きガリ版刷りの「創刊の辞」にこうある。(注1)
「わたしたちは女にかぶせられている呼び名を返上します。無名にかえりたいのです。なぜならわたしたちはさまざまな名で呼ばれています。母・妻・主婦・婦人・娘・処女…と」
 「女の呼び名」とは、どれも家父長制が女に与えた指定席ばかりだ。ウーマン・リブの女が自分たちを「おんな」と呼び始める、ずっと前のことだった。
 このひとに救ってもらった女たちはどれほどいただろうか。大きなおなかを抱えて筑豊の自宅を予告なく訪ねる若い女もいた。手紙を受けとり、抱きとめ、黙って食べさせ、寝泊まりさせた。わたしもまたこのひとに宛てた長い手紙を持ち歩いて、結局投函できなかったことがある。
このひとからわたしはどれほどのものを受け取っただろうか。「おんなの思想」(注2)はこうやって手渡され、受け継がれていく。森崎さん、わたしは、わたしたちは、あなたを忘れない。

(注1)『無名通信』は著作権者の同意を得てWANサイトの「ミニコミ図書館」に収録されている。
https://wan.or.jp/dwan/search?keyword=無名通信&x=27&y=9&dantai_name=&pref_id=0&minicomi_name=&start_year=0&end_year=0#gsc.tab=0
(注2)上野千鶴子『<おんな>の思想 私たちはあなたを忘れない』集英社文庫、2016年

(「読売新聞」西日本版6月25日掲載)