2018年秋のある夕方、わたしは心ときめかせながら、海の彼方にいるまったく面識のない上野千鶴子さんへとメールをしたためた。上野さんの著作約30冊の読後感を縷々綴り、そしてわたしが教鞭をとる大学(中国南京市の東南大学)での集中講義を請い願った。少々無謀なリクエストにもかかわらず、早くも翌日、上野さんから快諾のお返事をいただけたことが、今でも夢のようである。

その集中講義が実現したのは翌2019年の9月のことである。最初のコンタクトから講演実現まで1年ほどかかったが、その1年間で上野さんの中国における知名度は一気に高まった。
そのきっかけは他でもない、日本でも話題となった2019年東京大学入学式で行われた祝辞である。もし、私から上野さんへの無謀なメールがちょっと遅れていたら、間違いなく他の大学に先を越されていたことだろう。

東大祝辞が中国のインターネット上で流布した後、「上野千鶴子」に興味を持った多くの人びとが彼女の著作を探し求めたが、まだ中国語の翻訳書が少なかったため、『女ぎらい』1冊だけが注目されることになる。東アジア共通の事例を多く取り上げたこの著作は、中国の読者を瞬く間に惹きつけ、読者たちから「するどい」「溜飲が下がった」などといった称賛の声が相次いで寄せられた。
そして翌2020年の3月には、上野さんの代表作ともいえる『家父長制と資本制』が翻訳出版された。中国の女性たちはそれを「フェミニズムのバイブル」として精読し、ネット上で読書メモや感想を交わすようになる。それだけでなく、上野さんがマルクス主義フェミニズムの二元説を用いて、近代女性への二重の抑圧構造を同書で暴き出したため、マルクス主義に強く影響を受ける中国の学術界も強い関心をもつようになった―マルクス主義フェミニズムへの誤解もあるかもしれないが―。ちなみに、2021年7月に『開放時代』に掲載された拙稿「家父長制、資本制、国民国家と日本の女性―上野千鶴子の女性学の理論構築―」は、わずか1年の間にCNKI(中国の学術論文の検索エンジン)で3800回ものダウンロード数を獲得したほどである。普通は1年に200~300回のダウンロード数があれば良い方である学術論文の世界では、それは異例なことだろう。
2021年にはさらに『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』と『おひとりさまの最期』が翻訳刊行。前者は読みやすい対談やユーモアのある表現、そして漫画によるインパクトも相まって、とくに若い一般女性の間でブームとなり、人気書き込みサイト「豆瓣」の2021年度読書ランキングで、なんと3位に輝いている。一方、後者は高齢者や親の介護をしている人びとに広く読まれ、好評を博した。同書には、高齢者社会に直面している中国の「官」も関心を持ち、中国国家図書館が主催する中国出版業界においてもっとも権威ある賞の一つである「文津賞」を受賞している(2212冊の本の中から19冊が選ばれ、19冊の中、訳書は5冊のみ)。
そして、今年。
上野さんの作品7冊が一挙に翻訳上梓され、出版業界や読者たちを驚かせた。そのため今年は「上野千鶴子年」とまでも呼ばれており、年末に行われた「豆瓣」の2022年度人気作家ランキング発表で、なんと第1位の栄に浴したのである。

今年出版された7冊のうち、とくに人気があるのは『往復書簡 限界から始まる』と『<おんな>の思想』である。
「思想を販売するが、感情を販売しない」をモットーとする上野さんは、『往復書簡 限界から始まる』の中で、鈴木涼美さんと手紙の形を通して不意に自分の人生経験を漏らしている。読者たちはそれを自分の人生経験と重ね合わせて理解し、そして共感することができる。この点が、多くの読者を惹きつけた最大の理由であろう。『往復書簡 限界から始まる』に関する「豆瓣」の書き込みでは、本来ならば他人に知られたくない、あるいは語りたくないような、自分と母親との辛い関係についての生々しいライフストーリーを吐露する読者もいたほどである。
一方、学術的な『<おんな>の思想』で上野さんは、自分の血となり肉となった言葉を教えてくれた先輩たちの思想を、心を込めて解剖している。読者たちは、同書を通じて上野さんの思想の系譜をたどりながら彼女への理解を深めるだろう。そして、上野さんの言葉もまた『<おんな>の思想』に織り込まれており、自分たちの血や肉となりうる貴重な言葉であることを、読者は痛感するだろう。同書を翻訳したわたしにも、いつの間にか上野さんの言葉が滲み入っている。
中国において上野さんの著作の人気が高まった一因としては、近年の中国における男女格差の拡大が考えられるだろう。たとえばGender gap index 2022(ジェンダーギャップ指数)で、中国は世界146ヵ国中第102位に低迷している―ちなみに日本は116位である―。そのため、国内のインターネット上で、ジェンダーバイアスの問題が活発に議論されるようになり、またたびたびその問題をめぐって炎上を繰り返している。そのような状況下、上野さんのフェミニズム関係の作品を通じて論理武装しようと、多くの中国の女性たちが目を輝かせながら学び始めたのである。
もちろん上野さんのフェミニズム論は、中国におけるすべてのジェンダー問題に、回答を与えてくれるわけではない。それは、誰もほどくことができない結び目を一刀両断にする、「アレクサンダーの剣」のような絶対的な力をもってはいないし、また上野さん自身、そのような絶対的な力を信じているわけでもない。
2019年の東南大学での集中講義では、その一環として「ネオリベ改革がジェンダーにもたらした否定的効果」と題する上野さんの公開講演会が開催された。定員200名の外国語学院の会場が、ゆうに300人を超す参加者で埋め尽くされるほど大盛況だった。その講演の質疑応答で、参加者から次のような質問が出た。
「Is it your version of feminism?」
このいささか不躾な質問に対し、上野さんは少しも動じることもなく、こう答えた。
「Yes, It’s my version of feminism, and you may have yours.」
これからわたしたちは、上野さんの思想を咀嚼することにより、《わたしたち》自身のフェミニズム思想を生み出し、それをさらに逞しく、そしてしなやかなものに育て上げよう。それこそが上野さんが、わたしたち中国の女性―いや、すべての女性―に託した彼女の本願なのだろう。今、沸き立つ上野千鶴子ブームは、どうやら一時的な熱狂には終わらないようだ。
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