中国メディア「南方人物週刊」記者、王佳薇さんから依頼のメールインタビューを、先方の了解を受けて転載します。
後日、中国語訳も公開します。
(一)
1.現在、日本では渡航制限が解除され、通常通りの生活ができるようになりましたが、コロナ禍が経済の停滞やDV率の上昇など、いくつもの変化をもたらしたというのも否めない事実です。また、コロナの第一波では、男性研究者が発表した論文数が女性研究者を大きく上回り、学術界のジェンダー不平等が拡大したという研究結果もあります。ご自身の研究に対する考え方がコロナ禍で変わったり、進んだりしましたか?
基本的には変わりません。非常時は平常時の矛盾や葛藤がさらに拡大し、深刻化するというかねての持論が裏づけられた思いです。休校要請や在宅勤務で女性の家事労働負担が増えたことを各種の調査は明らかにしていますし、シングルマザーへの打撃も大きくなりました。非正規のエッセンシャルワーカー(その多くは女性です)は職を失い、収入が激減し、困窮しました。家庭内に閉じこもった男性のストレスは弱者に向かい、DV相談件数も前年比3割増、そして追いつめられた若い女性の自殺率が急増しました。ご指摘にある研究者の男女格差は、在宅勤務を強いられることで女性研究者の負担が増えたことと無関係ではないでしょう。テレワークを行うカップルのうち、夫の仕事が優先され、妻はひとりになれる場所がなく、妻のテレワークは家事や子どもに寸断されるという報告もあります。またICT化の進行で情報格差が拡大し、それが経済格差につながるという「K字型格差拡大」も予測されています。いずれもコロナ前から指摘されていたことばかりです。
2.『往復書簡 限界から始まる』では、社会から無視されがちな「老後の性と愛」に対する興味を示されました。中国では、多くの公園が高齢者同士の出会いの場になっています。高齢者の多くが「恋愛の仕方がわからず」、しかも財産に執着し、お金をかけずに老後を楽しみたいと考えていると指摘する報道もあります。日本の状況はいかがでしょうか。今後の研究テーマになりそうですか?
日本でも高齢者の離婚率、再婚率は徐々に上がっています。中高年の再婚市場ではあいかわらず男性は年下の女性を、女性は年金と資産のある男性を望む傾向が強いですが、それは男性が女性に介護期待を、女性が男性に経済力を期待しているからでしょう。抵抗勢力になるのは子どもたちです。法律で配偶者の相続権が手厚く保護されています(財産の2分の1)ので、財産分与を避けたいためです。ですが夫と死別した女性にも遺族年金(夫の年金の4分の3)がついていますので(再婚すれば失われます)、高齢女性は男性に経済的に依存する必要がありません。したがって法律婚をせずに事実婚をするとか、同居しないで週末だけを一緒に過ごすとか、旅行を一緒にするとかの自由な恋愛をする高齢男女が増えています。婚姻制度の外の自由な性愛関係は若いひとたちだけの特権ではありません。子どもたちが老親の性愛関係をタブー視しなければいいだけです。それだけではありません。新しい配偶者は子どもたちの介護負担を軽くしてくれるでしょう。ですから老親が新しいパートナーを見つけたらありがたく思えばいいのです。とはいえ、高齢男性の多くは再婚を望んでいますが、結婚を経験した高齢女性の多くは「結婚は一度でたくさん」と、再婚をのぞまない傾向にあります。高齢女性は異性との恋愛より、同性とのつきあいを選好する傾向があります。
3.著書『おひとりさまの最期』の中で、自宅で人生最後の日々を過ごす可能性について詳しく述べられました。「在宅ひとり死」の障害のひとつは、「孤独死」に対する一般的な社会認識でしょう。上野さんから見て、ここ数年、「孤独死」に対する一般の人々の拒否反応に変化はありましたか?それは、介護保険に対する意識の高まりによるものなのでしょうか。
孤独死の定義に決まったものはありませんが、①臨終に立ち会い人がおらず、②事件性がなく、③死後一定時間以降に発見されたもの、という3条件を満たすものですが、「死後一定時間」は自治体によってまちまちです。メディアで報道される孤独死は死後数週間、数ヶ月経って死体が腐乱したような悲惨な例が多く、それらは生前から孤立した人々です。高齢者の突然死はほとんどありません。高齢者はゆっくり死んでいきます。日本人の平均寿命は女性88歳、男性82歳、介護保険がありますので85歳を超えた高齢者の要介護認定率は約6割、ケアマネジャーがつきますから軽度でも週に2回訪問介護が入るかデイサービスに通えますからひとりで亡くなっても3日以内には発見されるでしょう。残るは臨終に立ち会い人がいるかいないかだけになります。臨終に立ち会ってもらいたいのは死にゆく人でしょうか、立ち会いたいのは死なれる側の人でしょうか。わたしはこれを「看取り立ち会いコンプレックス」と呼んでいます。死期が予期できるのが高齢者の死のよいところです。どたんばにかけつけてあわてて声をかけるよりも、臨終が来る前に感謝と別れを何度でも伝えておきましょう。
介護現場では独居の在宅死の経験値が上がり、介護職が自信を持つようになりました。それと共に在宅死の安らかさが知られるようになり、「孤独死不安」は相当解消したと思います。意識の高まりだけでなく、経験の蓄積のおかげです。
4.上野さんは無意味な延命治療に反対し、在宅介護や「在宅ひとり死」を強く支持するが、安楽死に関しては賛成しない立場をとっているようです。これは矛盾していないのでしょうか?末期がんの患者が痛みに耐えきれず、すべてを終わらせたいと思ったとき、ご本人に選択する権利があると思いますか?
生に対する積極的介入である延命治療も死に対する積極的介入である安楽死もどちらも支持しないという意味です。人間は生まれることに自己決定はありません、死ぬことについても自己決定はないと考えます。生き死にを人為的に決めることは人間の傲慢です。ペインコントロールは格段に進歩しましたので、末期ガンの患者が痛みにのたうちまわって死ぬということは今ではほとんどなくなりました。それに安楽死法を成立させたすべての社会で、「滑りやすい坂」現象が起きています。最初は「耐えられない身体的苦痛」であったものが、やがて「耐えられない精神的苦痛」も含まれるようになり、認知症者も対象になりました。そうなると「生きているのがつらい」だけで安楽死(積極的自殺幇助)の対象になります。「自己決定」であったものが、やがて「生きるに値する生命」と「値しない生命」との選別につながり、身体、精神、知的障害者にも影響が及ぶでしょう。どんな生命であっても最後まで生き切ること…それを望んでいます。
5.著書の中で、上野さんは一人暮らしの女性は「孤独死」を恐れる必要がないとおっしゃいました。それは一人暮らしの男性と違って、一人暮らしの女性には友達の輪が構築できている人が多いからですね。なぜ、男性よりも女性の方が「介護」の友情同盟を構築しやすいのでしょうか?
「孤独死」と呼ばずに「在宅ひとり死」と読んでください。問3に答えたとおり、3日以内に発見されたら「孤独死」と呼ばなくてもすみます。主治医がついていれば、制度上は死亡前24時間以内に訪問していれば死亡診断書が書けるという条件がついていますが、現場ではもっと弾力的に運用されています。女性は既婚・非婚を問わず男性よりも人間関係を作るのが得意で、それは相手の気持ちを汲むとかケアのスキルを持っているとか「女らしさ」の社会化の効果かもしれません。またおひとりさまの女性は、家族に頼れないことを自覚している分、友人関係のネットワークを積極的に作っています。それに比べて男性は職場を失うとほとんどすべての人間関係を失います。また職業上の関係は利害に基づいていますから、役に立たなくなった人は相手にされません。男性自身も無力になった自分を見せることを嫌って孤立しがちになります。かんたんに言うと女性は弱さでつながることができるが、男性は強さでつながるからそれが難しい、と言えるでしょう。加齢とは弱さの階段を下っていくことです。その点では老後を過ごすには、男性より女性の方が有利かもしれません。
6.女性の友情を題材にする文学作品が多くあります。嫉妬し合ったり、支え合ったり、疑心暗鬼になったり、助け合ったり・・・暗流逆巻く関係と言ってもいいかもしれません。このような経験をされたことはありますか?
嫉妬も友情も葛藤も支え合いも、男も女も経験します。女性の嫉妬に比べれば、男性の嫉妬の方が相手に打撃を与える力が大きいだけ苛烈でしょう、それにくらべれば女性の嫉妬など、噂や嫌がらせ程度でかわいいものです。わたしも人並みには経験しました。嫉妬や攻撃も大きかったですが、反対に共感や支援も大きかったので、ありがたいことでした。最近の女性作家の作品には、女性同士の友情や世代を超えた支え合いを描くものが増えてきました。過去の女性作家の作品にも女性同士の友情や絆を描くものがありましたが、それらが男性批評家たちに正当に評価されてこなかったのでしょう。
7.社会学者として、上野さんは長年にわたって家族の変化を目の当たりにし、それがいかに脆く、小さく、壊れやすいものになったかを痛感していることでしょう。近年、日本で結婚を選択する人が確実に減少していることについて、どう思われますか?
社会に不安が高まっている分だけ、家族に安定を求めたいと思う人もいますが、その家族が脆弱になっていることを多くのひとは実感しています。結婚は一生ものではなくなり、今や日本では30代のカップルの3組に1組が離婚しています。子どもがいても離婚しますし、子どもが小さいことも離婚の抑止力にならなくなりました。離婚原因の3分の1はDVですが、それは日本の若い夫が暴力的になったことを意味しません。おそらく過去も現在も夫は暴力的だったのでしょうが、妻の側の受忍限度が下がったのでしょう。日本の若い女性は不当な扱いに我慢しなくなりました。よいことです。わたしは日本の非婚率の上昇を「婚前離婚」と呼んでいます。離婚するには結婚しなければなりませんが、いったん結婚したら離婚するには結婚する以上のエネルギーが要ります。結婚生活の現実を見聞きした若い女性たちは、結婚する前に予め離婚を選ぶ、というのが非婚率の増加の背景にあるでしょう。裏返しにいえば、かつては女性にとって結婚は生活保障財として必須でしたが、経済力のある今の女性たちにとっては現在の生活をよくするよほどのインセンティブがなければ結婚に魅力が無くなったとも言えるでしょう。他方、結婚しない理由には男女差があります。女性は結婚しない、男性は結婚できない、というのも男性の婚姻率は年収と相関しているからです。じゅうぶんな収入がないために自分に結婚の資格がないと考える若い男性が増えています。それというのも、「男は妻子を養って一人前」というジェンダー規範が彼らを縛っているからです。結婚に当たって男性側が住居を確保しなければならない中国でも、事情は同じではないでしょうか。
8.子どもを産まない女性を「女性失格」と非難する人もいます。そのような非難を前にして、上野さんは揺らいだりしたことはないのですか?
わたしは子どもを産みたかったのに産めない女ではなく、子どもを産まないと決めて産まなかった女なのでそのことに後悔はまったくありません。ですが、「子どもを産んだこともないあなたに、女の何がわかるのよ」と非難を受けたときには傷つきました。そういうことをいう女性は、子を産んだことにしか自分の拠り所がないのだろうな、と同情しますが、相手から吹き付けてくる悪意と敵意は不快なものです。「女は子どもを産んで一人前」と言われますが子どもを産んだ女もいろいろ、産まない女もいろいろ、未熟なひともいれば成熟したひともいます。半世紀以上生きてくれば、人が成熟する道にはいろんな道筋があることがわかります。結果「おひとりさま」を貫いたことで、「結婚しない女」「子どもを産まない女」、つまり規格はずれの女に対する偏見を取り除くことにいくらかの貢献をしたのではないでしょうか。
9.年齢を重ね、家庭を築くことができなくても、子供を授かることができる保険として、あるいは「後悔したときの対策」として、卵子凍結を選ぶ独身女性が増えています。一方で、シングルマザーに対する社会的支援体制は十分ではなく、婚姻届を出している夫婦にはあらゆる面で有利な制度となっています。卵子凍結という選択について、どのように感じていらっしゃいますか?
子は「授かる」ものから「作る」ものに変わりました。生殖可能年齢を人為的にコントロールする卵子凍結を含む生殖技術はそれを可能にしました。ですがたとえ生殖技術を利用しても成功の保証はありませんし、どんな子どもが産まれるかは予測できません。わたしは人間が人間を産むということに人知を超えた畏敬の念を持っています。どうして人は産む・産まないについてもう少し自然に委ねることができないのでしょうか?(すべてを、とは言いません、いま避妊無しにセックスしているひとはほぼいないでしょうから)子どもが産めないならその事実を慫慂と受け入れ、産まれた子どもに障害があればそれを受け止める…なぜそれができないのでしょう。もしそうでなければ、男女の産み分けはもとより、出生前検査で障害児を中絶したり、好みの精子や卵子をお金で買うデザイナーズ・ベイビーのような生命に対するコントロールが強まるでしょう。どうしても親になりたかったら、親を求める子どもたちと養子縁組をすればいいのです。
シングルマザーが不利な状況に置かれ、法律婚の夫婦が制度上あらゆる面で有利なのは事実ですが、どちらにしても社会の育児支援体制は十分ではなく、母になったことで女性は「出産ペナルティ」と言ってよいほどのさまざまな不利益を長期にわたって受けます。それはとりわけシングルマザーに重くかかってきますが、夫のいる女性にしても同じです。それは社会があいかわらず育児は女(だけ)の役割と信じているからです。社会が育児の責任を分かちあうといういう方向にいけば、女は結婚の中でも外でも安心して子どもを産み育てることができるようになるでしょう。半世紀前の日本のウーマンリブの標語は「女がひとりでも安心して産み育てることのできる社会を」でした。その社会はまだ実現されていません。
10.『往復書簡 限界から始まる』では、母親と向き合うことから逃げていたことを告白されましたね。母親の死後、母親と内面的な対話をしているうちに、許しの気持ちでいっぱいになり、母親との関係も変わってきたとのことですが、この変化について、もう少し詳しく教えていただけますか?対抗すべき座標を失ったことで、人生にどのような影響があったのでしょうか?
「わたしは夫選びをまちがった」「お前たち子どもがいるから離婚できない」と愚痴る母は、子どもの目からも幸福には見えず、これが大人の女の人生なら、決してこうはなるまいと、母はわたしのカウンターモデルになりました。人間の一生のなかで親子の力関係は変わっていきます。母は子どもにとって強者ですがやがて老いるにしたがって弱者になっていきます。母を喪ったとき、わたしはまだ40代の初めでした。ガン末期ですでに目の前で弱者となった母を追いつめて対抗することはもはやできませんでした。もっと母が若くて強者だったときにやっておけばよかった、と後悔したものです。母の死はわたしにとって喪失ではなく、解放でした。ですが歴史を学ぶことは母の生きた時代への理解を深めます。母の世代の女には選択肢が少なかったこと、母は母なりにせいいっぱい生きてきたこと、わたしを応援してくれたことなど、祖母、母、娘…のつながりがわかるようになると、母の限界も自分の限界もわかるようになりました。子どもにとって母は母でしかありませんが、「ひとりの女」としての母と向きあう時間をもっと持ちたかったと今では思います。
(二)
1.中国では、一部の女性がフェミニズムに啓発されながらも、結婚や子育てに不安を感じています。もっと前に進んだ人は、家庭に入り、子供を持つことを選択した異性愛者を、家父長制の共犯とみなし、フェミニスト失格だと非難することもあります。上野さんのご意見をお聞かせください。真のフェミニストとは一体何なのでしょうか?
フェミニストは自己申告概念です。フェミニストに「真」も「にせ」もありません。ただいろいろなフェミニストがいるだけです。いろいろなクリスチャンがおり、いろいろな共産主義者がいるのと同じです。ただ教会や政党と違ってフェミニストは第三者が資格認定する名称ではありませんから、異端審問も除名もありません。フェミニズムは問いを放り込んだら正解が出てくる回答マシーンではありません。だからこそフェミニズムは多様ですし、そのあいだでさまざまな論争が起きてきました。フェミニズムが論争を怖れない思想であったことをわたしは誇りに思っています。もちろんわたしの目からは、この人にフェミニストを名乗ってほしくないなあ、という人もいますが(苦笑)、それもそのひとの自由です。わたしにはそれをやめろという権利はありません。わたしはフェミニズムを「自由を求める思想」だと思っているので、結婚契約で自分の性的自由をわざわざ縛るフェミニストを理解できませんが、世の中にはわたしの理解できないことを選ぶフェミニストはたくさんいます。人にはそれぞれ事情があるのだろう、結婚を通じて自由を求める女性もいるのだろう、と思うぐらいです。
2.近年、特に#MeToo運動以降、東アジア社会ではフェミニズムの機運が高まり、ジェンダーに目覚める瞬間を経験する女性が増えています。その一方で、フェミニズムをめぐる論争が絶えず起きています。『往復書簡 限界から始まる』の中で、上野さんは「『売春稼業は結構楽しい』と言ったとたんにセックスワーク容認派として認定されてしまう」という発言に触発されて、「フェミニズムは自己申告概念」と述べられました。フェミニズム陣営の分裂や、「どっち派につくか」という問題について、どのように感じていらっしゃいますか?このままだと、団結できそうな力を遠ざけてしまうことになるのではないでしょうか?
前問の回答のとおりです。何が正しいかは、歴史が判定してくれるでしょう。短期的には正しいことも長期的にはまちがっていることもありますし、小状況で最善の選択が大状況では差別の再生産になってしまうこともあります。これまでフェミニズムのなかでは激烈な論争がしばしば起きてきましたが、基本にシスターフッド(女性の連帯)に対する信頼がある限り、論敵もまた仲間のうちでした。ですがこのところ、ご指摘のとおり、白か黒かを二分して対立を煽るような傾向が生まれて、「団結できそうな力を遠ざけてしまう」ことを、わたしも危惧しています。ショートフレーズでやりとりするSNSの影響がその傾向を強めていると感じます。
3.このような世論や社会風潮が、上野さんの表現に影響を与えたことはありますか?
ICTとSNSは今やコミュニケーションにとって必須のツールです。避けて通ることはできません。そのために背水の陣を敷いてウィメンズアクションネットワーク(WAN)を作りました。「女性が安心して表現できる公論の場」を目指していますが、その目標が達成されたかどうかはまだ未知数です。
http://wan.or.jp/
4.フェミニズムを気持ちよく実践するには、どうすればいいのでしょうか?
とても良い質問です、フェミニズムを気持ちよく実践する」のではなく、「フェミニズムを実践すると気持ちいい」んです。フェミニズムはキモチイイ!が標語です。自分を解放し、言いたいことを言い、やりたいことをやる…方が、ずっと気持ちいいです。言いたいことを呑み込んだり、不条理を我慢する方がずっとキモチワルイと思いませんか?あなたもこの気持ちよさを味わってください。そのためには我慢しないことです。
5.近年の上野さんは髪を赤く染めた姿で登場することが多いようです。赤は「怒り」を意味することもありますが、「怒りを表す」というのは髪染めの本来の意図なのでしょうか?
言われてみれば、「レッド・アクション」(赤い色を身につけて街頭行動をする)は女性の怒りの表現ですね。ですがわたしが赤を選んだ理由はそれではありません。白髪が増えてきたので染めようと思いましたが、黄色や金髪のように西欧人の真似をするのはイヤだし、黒に染めて若作りをするのもイヤだったので、「染めているのがはっきりわかるが、金髪ではない」色を選択すると赤になりました。紫や緑でもよかったかもしれません。そのうち髪染めをやめてグレイヘアに変えるときが来ると思いますが、その時期がなかなか決められません。
6.2019年の東京大学入学式での祝辞で上野さんのことを知った中国の読者がかなり多いと思います。中国とは全く異なる土壌で研究をされているのに、中国で人気を博す現状についてどう考えますでしょうか?
あの祝辞のなかではさまざまなことを言いましたが、その中でどこがもっとも引用されたかを、中国の人に訊ねてみました。答えは「がんばっても報われない社会」という部分でした。中国は激烈な競争社会です。そこでがんばって疲れ果てた人たち、がんばっても報われない若い人たちがたくさんいることが想像できました。優勝劣敗、自己決定・自己責任のネオリベラリズムは勝者も敗者も幸せにはしません。日本も同じ方向を向いていますが、軌道修正の必要があるのではないでしょうか。
7.長年の実践で、落胆する瞬間はありますか?
わたしたちの世代が課題とし、格闘して達成したと思ったことが、若い世代に伝わっていなかったり、少しも状況が変わっていなかったりする現実に直面すると落胆します。たとえば月経や自慰について女が語るタブーを打ち破ってきたはずなのに、最近のフェムテックの登場に至るまで、若い女性が強いタブー意識を持っていることや、「自分の価値は自分でつくる」とがんばってきたのに、あいかわらず若い女性が男に認めてもらう価値を重視したりしている現実を見ると、がっかりします。
8.ジェンダー研究/女性学は、階級や人種といった要素と常に絡む交差的な学問です。中流階級の女性が直面するジレンマと、「草の根」の女性が直面するジレンマは全く異なるものです。上野さんも視点が過度に「エリート主義的」であると非難されたことがあるようですが、それについてはどう思われますか?これまでの人生や実践の中で、両者が複雑に絡み合っているのを感じたことはありますか?
おっしゃるとおりです。階級・性別・人種は「交差性」の概念が生まれる前から、3つの大きな社会的変数でした。女性学・ジェンダー研究が生まれる以前には「階級」概念が圧倒的でした。性別は階級概念に下属していました。ジェンダー概念が前景化した(できた)のは、階級概念が後景に退いた、つまりほとんどの国民が自分を中流だと感じることのできるような無階級大衆社会が成立したからです。日本では70年代までに国民の8割が自分は「中流」に属すると回答し、95%以上の女性が結婚し、そのうち半分以上の女性が主婦になりました。ジェンダーはあらゆる社会的変数のなかでもっとも自然化された最後の差別です。フェミニズムが登場する前には、女性は階級と人種・国籍で分断されていました。そこに「女性」という集合的アイデンティティを打ち立てたのがフェミニズムです。それをいったん通過しなければフェミニズムは成立しませんでした。女性学・ジェンダー研究の研究者は、事実わたしも含めて高学歴女性です。が、高学歴の女性研究者がエリートのための研究をやっているとは限りません。わたしは「主婦」研究をやってきましたし、他の女性学の研究者の多くも貧困女性やシングルマザーの研究など、社会的に不利な立場に置かれた女性たちを研究対象にしています。むしろエリート女性を対象した研究の方が少ないくらいです。それだけでなく、大学の外で民間学として生まれ育った女性学の担い手には、主婦、会社員、教員、パートなど多様な女性たちがいました。そういう草の根の女性たちと出会い、彼女たちに深い敬意を抱いたことがわたしの原点です。
現在ふたたび格差が問題になり、階級や人種、国籍、セクシュアリティなどの概念が浮上しているにはふたつの理由があると考えます。第一はフェミニズムが確立したおかげで女性のあいだの差異と多様性について踏みこんだ議論ができるようになったこと、第二はここ数十年にわたる世界的なネオリベラリズムの潮流のなかで、ふたたび格差が拡大しているという現実を反映しているのでしょう。
9.性的暴力の被害者が続々と名乗り出るなか、みんながみんな、伊藤詩織さんのような結末が得られるわけではないという事実が明らかになりました。沈黙を破って名乗り出た被害者の中には、時間のかかる訴訟手続きや権力関係の極端な不平等を前にして、棚上げを選択した人もいます。しかし、その選択を「諦めてしまった」とみなし、「何も起こっていない」と黙認するような人もいます。最終的に戦いから撤退することを選択した当事者は、果たして「敗者」なのでしょうか?どうすれば、世間が彼女/彼らを批判するのを止められるのでしょうか?
ご質問にある「世間」は、被害を告発したことを批判するのですか、しなかったことを批判するのですか?もし後者であれば、被害の告発にどれほどのコストが伴うかを知ってもらわなければなりません。誰もひとりでは闘えません。世の中には加害者と被害者のほかに傍観者の3種類がいます。傍観者のままでいたら、加害者の共犯者になります。もしあなたが被害者の告発を望むとしたら、あなたは傍観者の位置から降りて、同伴者(アライ)にならなければなりません。その覚悟もない人に被害者が「闘わない」ことを選択したことを批判する資格はありません。それだけでなく、被害者は法的に闘うことを選ばなくても、心理的・社会的にはじゅうぶんに闘っています。自分を肯定して生き延びるためだけにでも、闘いつづけています。被害者の闘いがどんなものか、性暴力被害者の「その後」について、もっと多くのことが知られるべきでしょう。
10.「男性にとっての男女平等のメリットは何ですか」という質問に対して、「社会のあらゆる変化には、現状維持と比較してメリットとデメリットがある」とおっしゃいました。男性にも女性にも、得るものがあり、失うものがあると…では、その上で、男性が男女平等を守るために具体的な行動を起こすには、どう説得したらよいのでしょうか。
あらゆる社会変動は異なる社会集団に異なる効果をもたらします。男女平等の達成によって、女性は失うものより得るものの方が大きいでしょう。男性は得るものもありますが、失うものの方が大きいかもしれません。それを知っているからこそ、かれらは男女平等に抵抗するのでしょう。既得権益集団にはいずれ退陣していただかなければなりません。ヨーロッパは市民革命で君主と貴族を追放しました。革命中国は地主と資本家を追放しました(新たに別の既得権益集団を生み出しましたが)。その革命を暴力的にでなく行うとしたら、時間はかかりますが、⑴世代交代によって性差別的な男性たちに退場してもらう、⑵次の世代の女性たちが性差別的な男性を選ばない、⑶息子たちを性差別的に育てない、という方法があります。それだけでなく、男性であることのメリットとデメリットのうち、メリットが少なくなってデメリットが大きくなってきたという社会の変化もあるでしょう。「男らしさ」の抑圧に耐えるコストを支払っても得られる報酬がそれに見合わなくなれば、男性たちも変わるのではないでしょうか。例えば働き過ぎで過労死したり、会社に忠誠を尽くしても会社がそれに報いてくれないという経験を男性たちが積み重ねれば、「男であること」のコスパが悪いことに気がつくかもしれません。
中国の読者にとって、上野さんは唯一無二のフェミニズム伝道師と言えます。多くの読者が上野さんに指導を仰ぎたいと思っています。以下は読者からの質問の一部です。是非ご意見をお聞かせください。
「唯一無二のフェミニズム伝道師」とは過褒です。日本にも中国にも、そして世界中に尊敬できるフェミニストの先達はたくさんいます。その人たちの多様な声に耳を傾けてください。何より足元の自分たちの社会の中から生まれ育ってきたフェミニズムを大事にしてください。
【読者からの質問】
唐/男性/メディア関係
Q:僕はあまり「男らしい」男性ではありませんし、そのような品性に憧れているわけでもありません。しかし、男友達(特に私より年上の人)が、僕にもっと男らしくなれと言ってきたり、ほのめかしたりすることがよくあり、片思いしている女性からも言われたことがあるのです。社会や周りから「男らしくあれ」と要求されることについて、どう思われますか?
女性にとって「女らしくあれ」という要求が抑圧であるように、男性にとっても「男らしくあれ」という要求は抑圧ですね、ご同情もうしあげます。「男友達」や「片思いしている女性」は、あなたを規格品の男に仕立てたいのでしょう。「片思いしている女性」は、あなたのありのままを受け入れるのではなく、あなたでない「男らしい男」を求めているのでしょうから、これはミスマッチ、諦めた方がよさそうです。女性は「女らしさ」への要求を息苦しいと感じてそれと闘ってきました。それが女性運動(フェミニズム)です。男性も「男らしさ」への要求が息苦しいと感じたら、それと闘うために男性運動をおやりになってはいかがでしょう?ですが現実には、女性運動ほど男性運動は活発ではありません。その理由は「男らしさ」に与えられるご褒美(既得権益ともいいます)を、たとえ抑圧と引き換えにしてでも、男性たちが手放したくないからではないかと、わたしはにらんでいますが、あなたはどう思われますか?その既得権益は減少しているというのがわたしの観察ですが。
蕎麦/女性/作家
Q:上野先生、こんにちは。36歳の時、私は様々な理由で(自分の弱さが主な理由かもしれませんが)子供を産み、人生がひっくり返ったのです。「子どもってめんどくさいな」と思うこともあれば、「子どもって不思議だな」と思うこともありました。鈴木涼美さんとの文通を読んでいると、どうしても上野先生のことを「遠くにいるお母さん」のように感じてしまいます。上野先生も「こんな娘がいたら」と想像しながら書いていたのでしょうか?何か失礼がありましたら、ご容赦ください。
国籍も世代も違うのに「遠くにいるお母さん」と親しみを感じてくださってありがとう。たとえ自分が子どもを産まなくても、長い間教育者として働いてきたわたしは、学生や若者に対して愛情を持っています「こんな娘がいたら」と想像すると、鈴木涼美さんは母親にとってはこのうえもない辛辣な観察者であり、批判者でしょう。怖くもあり、襟を正すような関係でもあります。ある女性の友人がフェミニズムの会場に思春期の娘を同行して、「今日は自分にとって一番の被害者であり批判者である娘を連れてきました」と発言したのを覚えています。タテマエでウソっぽいことを言えば、娘に見抜かれます。こういう緊張感のある親子関係は立派ですし、こういう関係を持ってみたかった、と思わないでもありません。
尹清露/女性/メディア関係
「なぜ男性に絶望せずにいられるのか」という問いに対する答えの中で、上野さんは若い頃に男性と愛し合い、傷つけ合う経験に触れました。その経験の中で、上野さんは構造的な問題をどのように考えているのでしょうか。ロマンティック・ラブ・イデオロギーに家父長制の影が付きまとうことはよく知られており、それは恋愛をする上でも避けて通れない問題なります。上野さんのお考えでは、「(異性愛の文脈において)男性の承認がいらない恋愛」は可能なのでしょうか?そういう恋愛は、どのようなものなのでしょうか?
家父長制の社会で自由恋愛は女が男と対等な性愛のゲームのプレイヤーになれるわずかに例外的な闘技場です。なぜなら愛情はお金と権力では買えないからです。だからこそ、革命ロシアでは自由恋愛が流行し、日本でも『青鞜』の女たちは「自由恋愛」を追求しました。「恋愛」は「相手の承認が要らない」ゲームではなく、「互いに承認を求め合うゲーム」です。(時にはこの承認さえあれば、他の承認は一切いらない、とカン違いする人もいますが。「あなたさえいれば他には何にも要らない」というシャンソンの『愛の讃歌』のようなものですね)その承認は、他と比べたり取り替えたりできるような「相対的な承認」ではなく、かけがえのない、とりかえのきかない「絶対的な承認」でなければなりません。おそらく近代において「恋愛」の地位がこんなに上がったのは、それまで個人に「絶対的な承認』を与えてくれていた神様が死んだからでしょう。「互いに承認を求め合うゲーム」では、駆け引きも交渉もありますし、女性が男性に対して優位に立つことも傷付けることもあります。そしてその過程で女性もまた「選ばれる者」「愛される者」であるだけでなく、「与える者」「愛する者」でありうることを学びます。その学びは自分に力と豊かさを与えます。ですから恋愛という経験はやらないよりやったほうがよいのです。
2023.02.04 Sat
カテゴリー:出版物
タグ:非婚・結婚・離婚 / 恋愛 / 家族、ケア、フェミニズム / 介護