NHK「100分deフェミニズム」(Eテレ2023年1月2日放送)が、加藤陽子・鴻巣友季子・上間陽子・上野千鶴子著『別冊NHK100分de名著フェミニズム』(NHK出版 2023年7月)として発行された。早速、買い求めて読む。番組で語られなかった内容も採録されているのが、うれしい。

 わくわく、ドキドキしながら一気に読み進める。4人の著者のオススメの一冊が、それぞれ個人的な思いとも重ねあわせて紹介される。過去から現在に至るまで、女たちに向けられた「分断」と「差別」に対する「怒り」と、最後は未来への道が切り拓かれてゆく希望とともに読み終えた。

 第1章 「不覚な違算」に囲まれて 森まゆみ編『伊藤野枝集』(加藤陽子)は、森さんの「大正を駆けぬけた女性思想家を、より多くの人々に知ってもらう目的で編んだ」という思いに沿って、加藤陽子さんの的確な解説に、目の前に野枝が立ち現れてくるような気がして、グイグイと読み進める。

 過去も今も、ちっとも変わらず、女たちは予期せぬ日常の出来事に足を掬われ、思い通りの人生を生きられない。今も「あるある」と思うことばかり。それを「不覚な違算」と表現しつつも、なお「自らのジャスティスは捨てられない」と、自分を貫いていった野枝の生涯が描かれてゆく。

 1923年9月1日、関東大震災後の9月16日、伊藤野枝と大杉栄、その甥の橘宗一(6歳)が憲兵隊特高課に逮捕され、即日、憲兵大尉・甘粕正彦らによって虐殺されて今年は100年だ。甘粕らは、その後、軍法会議にかけられ有罪となるが、他方、無法状態の下、多くの朝鮮人、台湾人、中国人たち、さらには日本人もまた殺された。千葉県福田村で、香川県の被差別部落出身の薬の行商人らが言葉の訛りを咎められ、朝鮮人と誤認されて虐殺された人々がいたことを決して忘れてはならない。

 2023年7月9日付毎日新聞には、復刊『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』(五月書房新社)を書いた辻野弥生さんのインタビューが載っている(取材・吉井理記)。9月1日には、映画「福田村事件」(森達也監督)も公開予定だ。

 野枝が虐殺されたのが28歳。あまりに早すぎる死。野枝が第一波フェミニズム『青鞜』に参加したのが17歳の時、平塚らいてうから『青鞜』の編集を引き継いだのが野枝、20歳の時だった。

 「ああ、習俗打破!習俗打破!」と『青鞜』の中で野枝は叫ぶ。しかし「分断という名の統治」は今も終わらない。1996年、法制審議会で選択的夫婦別姓法案が答申されたにもかかわらず、四半世紀後の今も法案は国会に上程されないまま。その背後には、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)からの横やりがあったのでは? アメリカもまた、1973年のロー対ウェイド判決(憲法で認められた中絶の権利)を、2022年6月、最高裁は、その判断を覆した。

 野枝は「自分がつながりたい人とつながれない難しさを、たとえば根岸の銭湯で出会う女工たちとのすれ違いを通して描く」と加藤さん。1章の特別座談「階級とジェンダー、その分断を越えて」で、上間陽子さんが、沖縄の若年女性の出産・子育ての応援シェルター「おにわ」での実践から、「でも、そこからなんだけどな」と言い、加藤さんもそれを受けて「そうですね、そこからなんですよね」と深く頷く。また鴻巣友季子さんはカズオ・イシグロの説を引き、リベラルなインテリたちが、グローバルな世界に飛び出し、同じ階層の知識人と意見交換する「横の旅」ではなく、階層もイデオロギーも生活環境も違う人たちと対話を深める、身近な「縦の旅」の大切さを、町内の「銭湯への旅」になぞらえて語る。そうだ、野枝は女たちに向かって「縦の旅」を、一歩前へ踏み出していったのだ。

 第2章 女性を分断支配するディストピア アトウッド『侍女の物語』『誓願』(鴻巣友季子)。マーガレット・アトウッドが、近未来のディストピアを予言する。ああ怖い、怖い。だって現実が今、そうなりつつあるんだもん。

 アトウッドは、60年代には女性の摂食障害、70年代以降は解離性同一性障害、いじめ問題を採り上げ、2000年代は未知の感染症パンデミックを描く。1985年発表のベストセラー『侍女の物語』は1990年、映画化された。背景には深刻な少子化問題があった。

 物語は、<ヤコブの息子>と名乗るキリスト教原理主義の一派が独裁国家ギレアデ共和国を建国。司令官の男性支配層が権力を掌握する。女たちは4つの階層に分断され、指導者/教育者としての「小母」。司令官の「妻」。子どもを産む見込みのない女は「女中(マーサ)」として家事に従事する。最下層の「侍女」は司令官の子を産むためにだけ配属され、名前もなく、「of(オブ)フレッド」(フレッドの物)と呼ばれる。さらに「不完全女性(アンウーマン)」も描かれている。

 鴻巣さんは、日本で1985年を皮切りに始まった法制度「男女雇用機会均等法」「第三号被保険者制度」「労働者派遣法」になぞらえ、総合職が「小母」。サポートする「女中(マーサ)」は一般職。「妻」は専業主婦。「侍女」は非正規雇用の派遣労働者というふうに、「女性の分断」をとらえる。

 ディストピアの三原則は、①婚姻・生殖・子育てへの介入・管理。②知と言語(リテラシー)の抑制。③文化・芸術・学術への弾圧。この愚民政策の行き着く先は、「自分で考える力」をも放棄し、やがてはそれが日常化していく絶望だ。まさに今の日本の政治状況ではないかと、おぞましくなる。

 アトウッドは読者から『侍女の物語』の続編を期待され、35年後に『誓願』を書く。「freedom from」(消極的自由)から「freedom to」(積極的自由)へと誘う、ひとすじの光を『誓願』の中に書き、独裁国家ギリアデの崩壊過程を女性たちの力強い連帯「シスターフッド」を通して描いてゆく。

 しかもその書き方は、すべて「過去形」と「過去完了形」だ。即ち、「過ぎた」ものとして。英語特有の時制を用いて「独裁国家が終焉を迎えたことを文体から分からしめるところが何とも憎い書き方だ」と、鴻巣さんは結ぶ。

 第3章 語り始めた女性たち ハーマン『心的外傷と回復』(上間陽子)。精神科医ジュディス・L・ハーマンが1992年に書いた本書を、「サバイバーにとってのバイブルだ」と上間さんは言う。女性が受ける性暴力、子どもたちが受ける性虐待の苦しみと、その後の回復の道筋が「往還的」に語られてゆく。1960年代にアメリカで始まった「コンシャスネスレイジング(意識向上)運動」は日本でも河野貴代美さんらによって紹介されてきたが、その中で女たちは語り始め、被害者たちの「私の体験」が、ようやく言葉をもち始めてきた。

 2021年10月、沖縄で若年女性の出産・子育ての応援シェルター「おにわ」(「きなわの」「んしんしているおんなのこたちを」「になってまもる」)を開設した上間陽子さんらは、サバイバーに向けて「あなたが望むよりも長いけれど、でも必ず終わり回復する」と伝える。

 自分以外の人々とともにある「共世界」(commonality)へと歩を進めようというハーマンの言葉を力に、サバイバーたちがエンパワーメントされていく「おにわ」での実践に、確かな希望が立ち上ってくる思いがして、ホッと心が温かくなった。

 第4章 ホモソーシャル社会からの訣別 セジウィック『男同士の絆』(上野千鶴子)は、いつもの小気味いい上野節を聞かせてくれる。イヴ・K・セジウィックが論じる、女が書く「男とは何者か」の分析に納得。合わせて上野千鶴子著『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店 2010年10月)を、ご参照あれ。「ミソジニーは、戦争を呼ぶ?」(旅は道草・88)やぎみね、も。


 セジウィックは「ホモソーシャル」の概念によって「ヘテロセクシュアル」と「ホモセクシュアル」を区別した上で、同時に、そのメカニズムにおいて女がいかに不可欠な存在であるかを明らかにした。「ホモソーシャル」とは同性間の社会的連帯。ホモセクシュアルは同性愛、それを嫌うのがホモフォビア。「ホモソーシャル社会」とは、社会の中で地位や権力、富を独占するために男同士でつながろうとする集団だ。それは家父長制に組み込まれた欲望でもある。

 セジウィックは文化人類学者レヴィ=ストロースの言葉を引いて、女性は婚姻において「モノ扱い」されてきたこと。家父長制には「ミソジニー」(女性蔑視)が組み込まれていると指摘する。

 ああ、思い出した。大学でレヴィ=ストロースの研究者だった先生に卒論指導を受けていた私は、卒業を前に就職先を探していた。しかし当時、民間企業は「女子不可」。女子が受けられるのは教職とマスコミのみ。先輩のいる大阪読売新聞社を受けて40名が最終面接に残り、うち女子は2人。受付名簿に推薦者の欄があり、中曽根康弘など政治家の名がズラリと並んでいた。推薦者なしの私は、もちろん落ちた。後日、指導教授に報告に行くと、「女は就職なんかする必要はない。早く嫁に行け」と言われて唖然としたことを。

 極論すれば、「異性愛の男とは、ホモフォビアとミソジニーを通じて、ホモソーシャル集団に成員資格を認められた男たち。同性に対する性的な欲望を抑制し、女を性的欲望の客体とすることで、男同士の連帯を確立する」と上野さんは喝破する。そして男は女を「客体(モノ)」として値踏みするのだ、と。

 これもまた思い出す。高校の修学旅行で長崎へ行き、ホテルは男女別々に別れて泊まった。その翌朝、バスに乗り込んできた男子生徒たちの女子を見る目に違和感を覚えた。元女学校から共学になった高校で、いつも男子生徒は優しかったのに。担任に「なんか今朝の男子の女子を見る目が、いつもと違うんですけど、なんでですか?」と尋ねると、「男とは、そういうもんだよ」と返されて、またまた腹が立ったことを。

 「男は何に生きがいを感じるのか。それは女に選ばれるとか女に愛されることではなく、男から男だと認めてもらえることだ」と、上野さんは言う。自分が力を認めたライバルと鍔迫り合いをしてグッと踏み込んだ時、相手から耳元で「おぬし、できるな」と囁かれた時の快感ではないか、と。ここはまさに上野さん流分析の真骨頂だ。その背景には他の章にも出てくる宗教保守、アメリカならトランプの支持層である福音派教会、日本では旧統一教会があると指摘する。

 そんな社会から抜け出す道は? 上野さんは言う。「半身でかかわること」「そうではない世界に身を置くこと」ではないか、と。そういえば女はいつも「半身でかかわり」「そうではない世界」を生きざるをえなかったのだから。「男たちよ、女を見習え」と言いたくもなる。

 というわけで『100分de名著フェミニズム』を読んで、すっきり。世の中がこれほど絶望的になりつつある今、「そうではない世界」に身を置いて、女も男も共に、時間と空間と経験と配慮を共有する関係へと導く、まさに「予見の書」として本書に出会えたことを感謝しつつ、そっと頁を閉じた。