侵害されない権利、侵害し合う社会
私はフェミニズムをはじめとする社会正義に関わることは、多様な個人の事情を尊重しそれらに向き合っていくことから始まると考えています。しかしながらその一方で、個人には自分の事情を他人に示さない権利も、他人の事情に自分の自由を侵害されない権利もあると思っています。
もっとも、例えば、感染対策のため(=他者の健康への権利を害さないために)その面において自身の健康状態を明らかにする、何らかの活動をともに行うためにメンバーの能力や属性を共有する、など必要に応じて事情をオープンにすることが求められる場面は考えられます。でも、基本的には自分の領域は自分のもの、その領域を侵されない権利は誰しもにある。それは身体においても精神においても。しかし他方で、それらの領域を守るそれぞれの権利と、他者と関わる営みという意味でのケアとせめぎ合いになる難しさもあり、そういったことも含め現実にはどんな場面でも他者と関係するということは何らかの領域の侵害のし合いを意味している部分もあると思うところもあります。
だからこそ、なるだけ、他者の領域も自分の領域も尊重しつつ人と関係していくことが大切なのではと思うわけですが、フェミニズムの活動にいろいろ参加する中で、わりとその理念、守られているのでは!と感じたことがしばしばあります。
自分の領域としての身体、精神、情報
というのも、普通に生活してるとあまりに、自分の領域にぐいぐい入ってこられる経験が多い。身体においても、たとえば痴漢や性加害、ハラスメント加害はなぜ悪なのかって、まずは自身の身体の表面や(場合によっては)内部の領域を侵害されるという意味にあると個人的には思っています。精神に関することでも、冒頭に述べたような、自分の情報や事情をオープンにする必要がない場面ではそうしない自由が守られるべきなのに、興味本位なのか、周知した方がよかれと思ってなのか、自身の優位性を示すため(マウンティングってやつ?)なのか、そこに踏み込んでくる人がしばしばいます。それらが深刻な状況になると、アウティングなどの被害が生じることもあるわけです。
こういう話題は、社会科学に関心を持つ方ならば特に目新しいものではないとは思います。権力を持つ者は何も自分のことを話さずとも事情は問われず、そうでない者は常に自身の説明を求められ丸裸にされ監視、管理される。
先に述べた、なんらかの侵犯をしながら社会関係は成り立っている、というのはおそらく正しいのだろうとは思うのですが、そうなると、「多様な他者の事情を知るべき」という理屈と「自分の事情を話す筋合いはない」、という理屈が矛盾したり、「他者の事情を配慮すべき」という理屈と「他者の事情によって自分の自由が奪われる筋合いはない」という理屈の相容れなさが生じるような気もします。そんな緊張感の中で、調整し合い、他者との関係を作っていくのが理想の社会正義だけれど、そこにもし権力のしくみが生み出す非対称な関係性や、配慮の負担や領域の侵犯に偏りがあると、それは不正義であるということになるわけです。相手の領域を侵犯しないとわかりえないこと、ケアしえないことはたしかにあるけど、そこにリスペクトがなかったり、自分はオープンにしないけどあなたはすべき、などの非対称性があってはいけない。そんな非対称な侵犯の先にあるのは、知りえた情報により、深刻な差別が生じたり、当該の個人が消費されたりジャッジされたりされるという暴力的な状況であるともいえます。
そんな権力構造の問題は日常生活において、社会の「あたりまえ」からずれていればずれているほど、その理由や事情を話すよう求められる、という形で立ちあらわれます。それは、セクシュアリティや国籍、障がいの有無、貧困など、抑圧を受ける立場であればあるほど深刻に、頻繁に生じるであろうと思います。しかし他方、一見とるに足らないとされる経験のなかにもそれらは起こりえます。
領域を互いに尊重し、関係をつくるということ
自分自身の経験でも、子どもの頃から、友だちと遊ばず一人で居れば、なぜ?「女の子」なのに可愛い服や同年代の少女が好む芸能人などに興味がなかったら、なぜ?将来、結婚なんてしたくない、と言えば、なぜ?(関西だったので、なぜ!?じゃなくて、なんで!?ですが^^;)
少し大人になったら、なぜ法律婚をしないのか、なぜ非正規の仕事を続けているのか、なぜ「些細なこと」にいちいち「文句」を言ってるのか・・・なぜ「普通」ではないのか。
「あなたはどうなの?」と尋ね返せばよいのかもしれないけど、それはそれでしんどい。
「普通」からズレた個人が好奇心や消費の対象とされ、「普通」の価値基準でジャッジされる。そもそもこの社会には、それらに言及する必要がないにも関わらず、さまざまな事情や特徴で個人がジャッジされる経験が多すぎる。外見しかり、家庭の事情しかり、性別しかり。それって侵犯でもあるし、純粋に失礼なことなんじゃないの、今それってあなたに関係ないでしょ?・・・とか。
話戻って、フェミニズム的活動のなかでは、そういった経験が少なかった、という話でした。あった経験を書くのに比べてなかった経験を書くのは難しいですが、例えば活動にかかわり始めた頃、あまりにあっさりした関係だなあと拍子抜けした記憶があります。大学院生である、ぐらいは伝えてても、どこの大学か、どんな専攻か、つっこんで聞かれない。どこに住んでるのか、年齢は、彼氏はいるのか、親は何してる人か、将来何を目指しているのか、なども。活動をともにすることが目的なのだから、基本的にそれらは言及する必要も答えを求める必要もないわけです。そして、社会問題に関してや自分の考えなど、話し合うことはいっぱいあるからわざわざ個人情報を話題にすることもない。個人の事情に踏み込みすぎるような質問が会話のなかであり、聞かれたほうも答えにくそうにしている場合は、誰かが、それは今聞かなくてもよいんじゃない?とやんわり伝える。まあ、社会正義に関わる活動全般に言えるのかもですが、少なくとも(私が信頼する)フェミニズムには、性別年齢問わずそういう傾向があるようにあるように感じました。
だからといって、秘密主義なわけじゃなく、そのときどきの関係性の変化によって、この人にはこんな背景があったのか、こんな経験をしてきたのか、こんな事情があるのか、とわかっていき、密なコミュニケーションにもつながり、という流れもたしかにあります。いろいろ話す中で、「実はそうやったんや!」と気づく経験も、新鮮で楽しいものでした(何名かに共通する音楽の趣味があることが出会って何年もたってからわかり一緒にコンサートに行くつながりができたりもしました)。
他者の領域も自己の領域も守るというのはこういうことか、というささやかな実感が複数の活動で経験できたことは、偶然ではなかったのではと感じます。もっとも、話し合いの中で必要な情報が語られないゆえにコミュニケーションが難しくなったり、逆に興味を持つ人が多い場合は話したくないことを話さなければならないような状況に陥ったりという場面がなかったわけではないです。おそらく、そういった場面が繰り返されるようになったとき、フェミニズムの活動というものは抑圧的になり、持続力や求心力を失うのではと個人的には考えています。
私が今回こぼした内容は、おそらく一般的には子どもっぽい話、と言われることかもしれません。嫌なことでも受け入れなきゃいけない、話さなきゃいけないのが大人の世界。でも、そんな大人の規範がそこに生じる権力や抑圧を正当化するなら、そんな「あたりまえ」なんて馴染めなくていい。だから、そういう意味でフェミニズムの場やそこでの理念が私にとって、面倒くさくも居心地のよいものだったのじゃないかなと思います。
※追記:後から読むと、自分が「説明を求められる側」の視点でしか書いてないなと反省しました。つい、おそらくは好奇心や相手との距離を縮めたい一方的な思いで、(その時点では気づいていなかったかもしれない)優位な立場から必要のない問いを投げかけていたことは私自身にも多々あると思います。よくなかったと思います。それとは逆に、これでは対話のなかで相手に何も言えなくなってしまう、という印象を持たれた方もいらっしゃるかと思います。あくまで、非対称な関係や抑圧的な関係のもと生じるような「ぐいぐい」入ってこられる現象、みたいなものをイメージしてます。文脈上必要なときはもちろんのこと、会話の流れのなかで、相手への純粋な関心やリスペクトの思いから、問いが出るときもあると思います。
じゃあ何が抑圧的な問いで何がリスペクトゆえの問いか、という厳密な区分は難しいとは思いますが、結局はそこに信頼関係があるかないかかな、と感じます。信頼関係=抑圧のない関係なわけだからなんだか同語反復みたいな気もしますが、理想の理想は、たとえ不必要な問いや自身の領域への侵犯があっても、それは嫌です、やめてください、と言える関係なのかなと思っています。と少し言い訳を追記・・。
おいまたかよ!!って感じですが・・。『分断されないフェミニズム』よろしくです。分断しないんじゃなくって分断されないフェミニズム!
2024.01.18 Thu
カテゴリー:連続エッセイ / 個人的なフェミニズムーそこにあった、やわらかい政治
タグ:本