
長年一緒に居るぬいぐるみのむーちゃんと…あ!宣伝!
「フェミニストに怒られる」「面倒くさい」時代
最近どうやらコンプライアンス云々を議論することがブーム(?)になってるようですね。職場やメディアにおいて、昔はおおらかだった、今はなんでもかんでもハラスメントとか言いやがってめんどくさい、などそんな感じの(そういう系のドラマもあるみたいなんですがそちらは見ておらずすみません)。ポリコレなんちゃら言われてた頃から何年も経っててこういうの何度目?ぐらいの既視感ある話題にも思えます。まあ、それだけ権利の問題に意識的な人びとや、権利の問題に意識的なふりをしといたほうが無難だったり利益になったりする人々が増えてきたせいもあるとは思いますが。
で、なんでもかんでもハラスメントとか・・・にたいして、いや、そのハラスメントは昔は見過ごされてきたものなのですよ、やっと声を上げ始めることができる時代に・・・という反論もさんざんなされてきただろうし、それはそれで重要であり議論を続けていく必要がある(面倒くさいとか思ってる人はそもそも考えたくない人だろうからそんな反論は届かないかもしれんけど)とは思うけど、もうひとつ気になることがあります。
なんでもかんでもハラスメント、コンプライアンス・・の台詞の亜種に、「こんなこと言ったらハラスメントとか言われて怒られるかな」とかいうのがありますが、フェミとしてこれもかなり既視感あるものでもあります。例えば、固定的なジェンダー規範に基づいた言動や性差別的な言動の主から、「こんなこと言ったらフェミニストの人に怒られちゃう」みたいな台詞が発せられることは、なんども目にしてきました。まあ、これは一種の「呪いの言葉」であるわけで、粛々と、「怒られるかもしれませんねえ」とか「そういう自覚があるだけマシですよ」とか言い返せばよいわけなのですが、こういう「怒られちゃう」何か、は「我々を縛る悪しきコンプライアンス(的なもの)」とほぼ同義なわけで、怒られたくない、コンプライアンスにうるさい人とかフェミとかに思われたくない、という人の思考を止める類の「呪い」であるわけです。
さて、今週も宣伝みたいでアレですが、(稚)拙著『分断されないフェミニズム』では、「分断しない」ではなく、「分断されない」という文言をタイトルに入れました。それは、共感や共鳴し合えるはずの個人を分断させる社会を問いたいという気持ちがあったためです。「怒られてしまう」が有する問題には、差別やハラスメントの背景にある社会のしくみや自分自身への視点を持たない態度や、「怒り」そのものへのからかいやその矮小化などが挙げられてきました。それらとともに、不正義にたいしモヤモヤしたり考えてみようとする人々への阻害や、それによる「考えたい」人々を分断させる問題も深刻だと思います。実際、「フェミニストじゃないけれど」「I'm not a feminist butなんちゃら」と言いつつ、ジェンダー不平等にもやもやしたり、フェミニズム的に思える生き方をしたりしている人たちもたくさんいらっしゃるとも思います。
「フェミニストが怒りそう」とされる事柄のいくつかに、いや、むしろフェミニズム的やん!!て思うことも結構あります。まあ、これまでの回でも述べてきたように、フェミニズムにもいろんな立場や考え方があり、あるフェミニズムからはNGくらうけど、あるフェミニズムからはむしろ称賛、みたいなことはいっぱいあります。いや、主流派フェミニズムはこれだから、このタイプのフェミニズムが蔓延ったことにフェミニズム全体が責任を、みたいな不毛な議論は置いとく(フェミニズムが力を持つこと自体の社会正義の観点からの振り返りは必要だと思うけどあくまでフェミを否定する視点からの不毛という意味で)としても、こういう「フェミニズムは〇〇」というレッテル貼りがいかにフェミニズムを貶めたりフェミニズムに接近しそうな人たちの阻害をしてきたのかには意識的になってもよいのではと感じます。私はフェミニズムのことなんてよくわからない、というような謙虚な気持ちがあるならば、「フェミニズムはこう!」「こうしたらフェミに怒られる!」って聞いても、ほんとにそうかなあ、私がモヤモヤする気持ちと近いこともフェミは言ってる気がするからちょっと自分で調べてみよう、となるんじゃないかな、と。
ただし、その人の言動を「私はそれはフェミニズムだと思う」ということはともかく、その人にたいし「あなたは本当はフェミニストだ」とレッテル貼りをすることは違うと個人的には思います。なんらかの理由があって、その人は、「フェミニストじゃない」というアイデンティティを持っているのかもしれない。例えば、世間のフェミニズムへのレッテルがあまりに悪どいものでありすぎるから、自分を守るために、「フェミニズムじゃない」とする人も居れば、特定のフェミニズムにの主張が自分にとってあまりに受け入れられないものであるからそうならざるを得ない人もいるかと思います。私自身、フェミニズムのこういう側面は合わないから「フェミニズムなんて嫌い」て言いたくなるときもあります。
面倒くさい時代とレッテル
人それぞれにフェミニズムがあるのはもう今更って感じですが、もちろん、「怒られそう」っていうときのフェミニズムが、その人が自分のものとして向き合ったフェミニズムであるケースもあるとは思いますが、そういった主語のない発言の場合、結局は自分に都合よくフェミニズムにレッテルを貼っているわけで、それはあまりよろしくないことなのではと感じます。社会について考える上での便宜上(柔軟に)カテゴリー化したりそこに一定の特徴を見出すこととはあれども、そこには責任が伴います。自分の都合で無責任にレッテルを貼ることは、思考停止であり、人や事象に敬意を示すことと、真逆にある行為です。自身の立場性の認識や社会にたいする想像力が求められるインターセクショナリティにも反します。そして、そういったレッテルが、社会を問う萌芽を混乱させ、分断を生みだすことは由々しきことだと思います。
敬意と真逆のレッテルという意味では、コンプライアンスやハラスメントの指摘が(ある程度のガイドラインは必要とはいえ)、文脈を問わず特定の特徴を持つ言動にたいし表面的になされることにもまた同様の問題があると思います。「こういうのは怒られる」におけるレッテルと同様、こういうのはアウトに違いないからとりあえず取り締まっておこう、NGだと言っておこう、では、逆に、「面倒くさい時代は嫌」の気運を高め、その行為の持つ問題性がかえって矮小化されることにもつながります。さらには、フェミニズムや社会正義が、何かの正義を問うために特定のカテゴリーの人にレッテルを貼り話を進めることもあってはならないと思います。問うべきは個人の言動や社会のしくみであり、そのカテゴリーを生きる人々の差別や決めつけにつながることはあってはならないと思います。
面倒くさい時代だ、どうせ怒られるんでしょ、としか言う人のなかには、自分に都合の悪いものにレッテルを貼ってそれを基準にしか語れない人も多々いらっしゃるように思います。そういった言葉が力を持つと、社会について考える営みの幅は狭められ、成熟した社会とは言えない社会が生まれます。とはいえ、社会を考える主体はそれぞれの人なんだから、そういった言葉に惑わされず、自分を主語に世の中を見て、その上で、自分の自由が不必要に奪われていると感じるのなら、自分の言葉で、その奪っている誰かや何かについて考えてみてから批判するのでも遅くないのではないでしょうか。同時に、自分がフェミニズムを含めた社会正義について何か思うとき、誰かにレッテルを貼り単純化して考えてしまってないかを問い直すことも大事です。
思い返すと、もともとジェンダー論が学びたかっただけ(?)の私があえてフェミニズムに関心を持ったきっかけのひとつに、「こういうことしたらフェミニストの人って怒るんでしょ」という言葉を向けられた経験というものがありました。その時、フェミニズムを馬鹿にしてんかい!ていうよりはむしろ、いや、別に怒らんけどなあ・・という気持ちになった記憶があります。その人にとってフェミニズムって結局なんなんだろう、と。
こんな感じのフェミニズムのきっかけ的な話これまでにもいくつかしてますけど、次回は、その別のきっかけ、「女は入るな」の経験、について語ってみたいと思います。
しつこくすみません!!『分断されないフェミニズムーほどほどに誰かとつながり生き延びる』(2023 青弓社)よろしくです。あと、こそっとインスタ始めてみましたのですがこちらもよかったらよろしくです。
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