そもそもニコイチじゃなくっても・・・

4月はお休みしましたが、また3月に続きエロの話ですみません。。



最近、若い世代を中心に、恋愛に性関係が伴うことに疑問を持つ声が上がっているとの話題をたびたび目にする。よいんじゃない、と思って眺めてたけど、それにたいするわりと批判的なコメントも目につく。概ね、愛の名の下に、思いやりとして、自身の気持ちや状態をなおざりにし、もしくは嘘をつき、相手の欲求を受け入れることの尊さ、といった文脈でそれらの批判はなされているように思える。いわゆる、性欲の解消がその間でのみ認められるロマンティック・ラブ・イデオロギーに基づいた声であり、相手を満たす義務を果たせないならば婚外、もしくはカップル外の性関係を許容すべきという意見もちらほら。

思いやりや相手への愛情のため、「婚姻を継続し難い重大な事由」にもなる、もしくは別の異性と関係を我慢できないのであれば、と言われれば一見「そういうもの」と納得されそうな話ではあるが、個人的には、こういったカップルなら性行為すべき的な議論は正直気持ち悪い。自分自身はしたくない派ってわけではないけど、そういった話って、それを考える前提となるさまざまなものがすっとばされた、ご都合主義に思えるからだ。まず、だいたいこういったネタは異性間のカップルが前提とされていることが多いが、「思いやり」としての欲望の受容はお互い様だと言えども、これまでの性規範の名残(?)がある以上、女性の側に不利になるものじゃないのか。

建前上はむやみに性的な言動は慎むべきとされる一方で、男性の性欲は本能であり仕方ないもの、とされる。他方女性は、性的欲望は持つべきではない、性行為は妊娠のためのみの行為と諭されてきた。なのに、恋人関係、夫婦関係になれば相手の欲望を満足させるための行為としても性関係を義務として求められる。自身の欲望も育たないなかで自由に欲望を持てる相手に応じないといけない、とはどういうことなのだろうと思う。「お互い様」の義務が成り立つとするなら、少なくとも男女の性規範が二重基準ではなく同等になることが条件だと思うけれど、実際はそうでない形で長年続いてきたことになる。気持ち悪い。あと、もし「男性の本能」説と「お互い様」の理屈をともに支持する人がいるなら、それはあまりに身勝手だと思う。

また、日本の性教育の不十分さへの反省なしに、愛情や義務として性関係が教養されるなら、それも問題である。自身の身体にとって、生活にとって、性行為がどのような意味を持つのか、妊娠や性感染症など相手の身体にも関係するような問題を理解せぬまま、さらには、自身の性欲と向き合う経験に偏りがある状態で愛や本能の名のもと性行為が存在すること自体が気持ち悪い。

カップル間で性行為に応じない場合、欲望を持つ側がカップル外での性関係を持つことを許されるのか、貞操観念云々でそれが許されないなら地獄だ、的な言い回しにも違和感を覚える。そもそも、いわゆる売買春など金銭が絡んだ性の文化は、利用する側に関してのみ考えても、男性優位な文化であるし、カップル外の快楽の性に関する機会や偏見の偏りを放置したままではなあ、と。男女が同等に、貞操が求められるか、求められず自由に快楽を楽しめるか、が実現してはじめて、カップル外の性関係の選択肢の是非という議論をしてもよいのではと思う。

そもそも同意がない性行為はカップルであったってDVですよ、という

そもそも、体調やなんらかの拒否反応で「したくない」側VSやりたい側、という問題でもないはずだ。もちろん、「したくない」理由が相手を侮辱するものであることなら、性別問わず許されないが、どちらの願望を優先するか、でがロマンティック・ラブ的には後者、そこにもジェンダー不平等が、って話なわけだけど、もともと性関係って、挿入を伴う場合でも伴わない場合でも、相手の身体の領域を侵す行為には変わりない。だからこそ、相互の信頼関係があってこそ(それが愛である必要もない)実行可能なもののはずだ。身体の領域への権利はそれぞれの個人に属するわけだから、双方が権利を譲渡しあうことで快楽や満足を得られるならともかく、権利を侵す側、つまり「やりたい側」の要求と、侵される側、「やりたくない側」の要求が同等のものではないと思う。望まない性関係を強要することの正当化には、何かをねだって断られて、その相手にケチと言い放つようなちゃんちゃらおかしさを感じる。

自分の欲望の処理の責任は基本的には自分で。カップル外の性関係が許せるかどうかは、そこにあるジェンダー格差などの事情を踏まえたうえで対話の下で判断すればよいし、対等に話合えない関係なら、またそのへんの価値観が合わないならカップルを解消するのも手段だと思う。でも、少なくとも、男は許されて女は許されない(もしくはその逆)などのダブルスタンダードはあってはならない。それで納得する人もいるかもだけど、本当に自分を尊重したうえで納得しているか、という話。個人的には、自分を尊重できない人は性関係もってはいけないと思う。


自分の領域は自分のもの、とは身体に限らず、精神においても大事なことであるはずだし、ロマンティック・ラブ的な愛の名の下に同意なくとも相手の領域を侵しても仕方ないとする、あるいは同意が強制される文化は本当に気持ち悪い。他人の身体に触れるとき、他人の事情に踏み込む会話をするとき、その可否をたずね、同意を求めるのは人としてあたりまえのことのはずだ。性の話題に限らなければ、恋人間、夫婦間だけじゃなく、家族という関係性のなかにもこういった自他の境界や領域が尊重されないことが愛の名の下に起こりうる。また、誤解を恐れずに言うと、社会正義に関わる活動なんかにも、なんらかのミッションや理念の名の下に、こういった領域侵犯が起こることがある。こんなに正しいことをしているんだからあなたも共闘してあたりまえ、差別に反対しているのならどうして私の主張に賛同してくれないの、協力してくれないの、など、自他の境界は、何か「崇高なもの」の下では侵されて当然、とする姿勢で行う政治的営みは違うと思う。フェミニズムもまた、そうあってはならない。

分断されないフェミニズム: ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる

著者:荒木 菜穂

青弓社( 2023/12/18 )