
※作品の内容に関する記述があります
2015年に公開された『インサイド・ヘッド』の続編となる今作だが、前作を見ていなくても十分に楽しめる作品だ。
まず、この作品が面白いのは、「主人公の物語」と「主人公の脳内の物語」が同時に進行することである。主人公の脳内の物語は、ヨロコビ(喜)、カナシミ(哀)、イカリ(怒)、ムカムカ(不快)、ビビリ(臆病)という5人の擬人化された感情たちの葛藤によって表現されている。
このような表現により、主人公ライリーの行動や判断に関する迷いの過程が、複数の感情たちの「争いと協調の物語」として、分かりやすく可視化されているのだ。
前作『インサイド・ヘッド』では、主人公ライリーの誕生から12歳になるまでが描かれていた。特に11歳の時に起こった、住み慣れた土地からの引っ越しと環境変化が彼女にもたらした感情の混乱、そこからの「脱出と学び」がメインに描かれていた。
『インサイド・ヘッド2』では、前作の2年後という設定。ライリーは新しい土地にもなじみ、中学校のアイスホッケーチームで、ブリーとグレイスという2人の親友たちと活躍し、毎日が充実していた。そんなある日、ついにライリーが思春期を迎えるところから物語が動き出す。
高校進学も間近になり、ライリーと親友のブリーとグレイスの仲良し3人組は、進学予定の高校のアイスホッケーサマーキャンプに参加することになる。ライリーは、これからも3人一緒のチームでプレーしながら高校生活を楽しめると信じていた。しかし、なんとブリーとグレイスは、2人とも別の高校を受験することが決まっていたのである。突然そのことを知らされたライリーは、ひどくショックを受けてしまう。
思春期に突入していたライリーの脳内は、ただでさえ感情のバランスが崩れ大騒ぎ中。そんなときに知ったこのショックな出来事に加え、思春期ならではの感情として新たにシンパイ(心配)、イイナー(嫉妬)、ハズカシ(恥ずかしさ)、ダリィ(倦怠)という4人の感情たちがライリーの脳内に参加したために、大混乱になってしまう。
ライリー脳内の一番の古株で、いまや感情のリーダーである能天気なヨロコビは、良い子であろうとする「ライリーらしさ」を守り、2人の親友ブリーとグレイスとこれまでと変わらずに仲良くさせようとする。しかし、新メンバーであるシンパイは、これまでの友情を優先させるよりも、これからの高校生活において重要となるであろうアイスホッケーチームの先輩たちの仲間に入れてもらうこと、そして何より憧れの選手であるヴァレンティナに気に入られることを優先すべきだと主張するのだった……。
──多様な声を排除する圧力を可視化する
この映画を2回見た私は、1回目はただただ感動で泣き、2回目を見て気が付いた。
それは、この映画が、「多様な声が多様なまま尊重される社会」や、「多様な声が多様なまま尊重される個人」でいられることを強く願うような、そんな作品である、ということだ。
まず、この社会は多様な声で出来上がっている。これは言うまでもないことだ。
しかし、「社会だけでなく個人でさえもが多様な声で出来上がっている」ということを、この作品は示した。ひとりの人間のなかにも、複数の感情という多様な声が存在しているということを、『インサイド・ヘッド』は「擬人化した感情たち」を登場させることで可視化してみせた。
そしてその多様な声が、社会的にも、個人的にもある「圧力」にさらされているということも、この作品は描いている。
その「圧力」とは、常に生産性があり有用なものだけを残し、不要と断定したものを排除しようとする「効率化の圧力」だ。
多様な声が「効率化の圧力」にさらされるというのは、たとえば、ライリーがホッケーチームのなかで自分の意見を捨て、先輩たちの好む正解を出そうと躍起になる姿に現れている。
正解=「より高いリターンをより確実に手に入れる投資」を選ばないということは、資本主義社会では敗北を意味する。
よりリターンがありよりリスクの少ない投資を選ぶのはシンパイだ。先輩たちに気に入られようと孤軍奮闘するライリーの頭の中では、シンパイが感情の主導権を握り、ヨロコビ率いる旧感情メンバーたちは追放されてしまっていた。
シンパイとは、投資のリターンを危ぶむ思いの象徴である。すなわち、シンパイこそが、より高い利益を求めてライリーという投資家を奔走させるのであり、資本主義を駆動させている。暴走してしまったシンパイは、弱肉強食を信じ込み、弱者切り捨てを「正解」と見紛ってしまっていた(もちろん、暴走しなければシンパイだって必要不可欠な存在だ)。
社会の仕組みに後れを取らないよう必死になり、友人たちと自分らしさを切り捨てようとするライリーの姿は、多様な声を切り捨てようとする圧力を具体的に描いている。
また、ライリーにそんな行動をさせ、自分たち旧感情メンバーを要らないものとして排除しようとしたシンパイに対して反感を抱いていたはずのヨロコビも、物語終盤、ふと自分がやってきたことを振り返る。
ヨロコビは「ライリーをより良い人間にするため」「ライリーを幸せな気持ちにさせるため」に、ライリーにとって恥ずかしかったり嫌な気持ちになるような「思い出」を、全て要らないものとして捨ててきた。
実はヨロコビ自身もまた、自分が要らないと一面的に断定したものを切り捨てるという、資本主義社会に則るような行動をとってきていたのだ。
切り捨てたものの中にこそヒントがあるとわかったとき、ヨロコビはやっと自分がやってきたことの間違いを悟る。
一人の人間のなかに多様な感情(わたしたち)がいていい。あらゆる思い出があっていい。自分の中にある多様な声を認めること。それでこそ、複雑で豊かな人間がつくられると気付いたのだ。個人のなかでそれができなければ、多様で、ときには小さな他者の声に耳を澄ましながら対話を重ねるような社会はつくり得ないだろう。
ヨロコビやシンパイの行動は、資本主義的な取捨選択が社会においてだけでなく個人の中でも起こることを示している。個人の中の多様な声も「効率化の圧力」にさらされているのである。その両方を描いているという点でも、『インサイド・ヘッド2』は画期的といえるのではないだろうか。
──ジェンダー規範の内面化を可視化する
ライリー、そしてライリーの感情メンバーたちは、知らず知らずのうちに資本主義社会を上手く生き抜くための行動を内面化しようとしていた。この世界を生きる人間にとって、そのような圧力を避けて成長するのは難しい。
そして、子供が成長するうえでこれと同様に避けがたい圧力と呪いになるのが、ジェンダー規範だろう。
子どもと大人の狭間の思春期に突入したライリーと、作中の大人を代表するキャラクターともいえるライリーの両親の感情メンバーたちを比較してみると、見えてくるものがあるかもしれない。
主人公ライリーの感情メンバーである、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、そして新メンバーのシンパイ、イイナー、ハズカシ、ダリィたちは、公式HPなどを確認しても特にジェンダーに関する表記はされていない。
あえて言うなら、所謂「女性らしい」「男性らしい」とされるような仕草、装いをしているのがそれぞれムカムカとイカリだろう。そしておそらくキャラクターの声もそのように意識されている。
感情メンバーたち
上段左からシンパイ、イイナー、ハズカシ、中段左からダリィ、ムカムカ、ビビリ、下段左からヨロコビ、イカリ、カナシミ
しかし基本的にはキャラクターたちの描かれ方も様々で、ジェンダーだけでなく、それぞれ個性のあるアイデンティティをもったキャラクターとして描かれているように見える。
ライリーと同い歳の親友、ブリーとグレイスの頭の中もすこし登場するのだが、その2人も同じようなメンバー構成であったように見えた。
では、ライリーのママとパパの頭の中はどうだろうか。
前作『インサイド・ヘッド』同様、今作でもライリーのママとパパの頭の中の会議シーンがある。
まずはママの感情メンバーたちを見る。↓

ライリーのママの感情メンバーたち
ママの特徴である赤いメガネを全員がかけているだけでなく、髪型、仕草や声も「女性」として統一されているように見えた。(わかりやすくイカリには化粧が施されている)
次にパパの感情メンバーたち↓
ライリーパパの感情メンバーたち
全員が髭を生やし、スーツにネクタイを締めた装いで、スポーツ観戦に熱狂している。ステレオタイプな描き方ではあるが、「男性」として統一されているように見えた。
13歳のライリーやブリーとグレイスには見られなかったこの現象はなんだろうか。
「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」
というのは、フランスの哲学者・作家であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールが、著作『第二の性』(1949)で書いた有名な言葉だ。
今の世界では、多くの子どもたちは、社会が期待する性別役割の抑圧を受け、ジェンダー規範を内面化しながら成長していく。そこから逃れながら育つことはとっても難しい。
ボーヴォワールは「女」の話をしたが、男性も「男らしくあれ」というプレッシャーを幼いころから受け続ける。
そしてもちろん、男/女という二元論を当たり前とする社会の圧力も存在する。
ライリーのママとパパの感情メンバーたちも、生まれた時からこうではなかったのではないか。
ライリーの感情メンバーたちにはまだ、ママとパパのような変化はない。やっと新しい感情たちが登場してきたばかりで、まだまだ混乱中だ。
これから成長していくにつれ、自分のジェンダーやセクシュアリティについて悩んだり、揺らいだりするかもしれない。
しかしそんな時こそ、ライリーにはヨロコビたちがついている。
多様な声の大切さを学び、取り戻したヨロコビたちという存在そのものが、希望のようにも感じられた。
松村ひらりプロフィール
↓
俳優、フェミニスト。青山学院大学文学部比較芸術学科卒業。卒業論文は『映画は「女性をめぐる偏見」の強化もしくは緩和にどれほど影響を与えてきたのか?-映画の影響力を数値化する試み-』。
現在、映画『アディクトを待ちながら』が公開中。2023年、坂手洋二演出劇団燐光群の舞台『九月、東京の路上で』のほか、瑠東東一郎演出のドラマ『うちの弁護士は手がかかる(フジテレビ)』に片山菜々子役で出演。2024年は、劇団「趣向」の舞台『べつのほしにいくまえに』でジュリエット役を演じ、ニューヨーク大学の荻野緋菜監督作品『SALT IN SOIL』では主演を演じた。
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