エッセイ

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篠塚英子 竹村和子さんを想う 

2012.07.22 Sun

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 Yes, I Stay Strong !

サクランボはとても短命です。わずか6月中旬から7月の1週間ほどです。竹村さんから「果物のなかで自分の一番好きなサクランボを贈ります」と新宿タカセから佐藤錦が届いたのは、去年のちょうどその頃でした。去年の3月末に、悪性の腫瘍が発覚してから過酷な検査や手術をして2カ月も経たない一時、つかの間の千石の自宅にいてまだ少し心にゆとりのあった時でした。

私は竹村さんと同じ大学で教員をしておりましたが当時は既に3年前に定年退職し、年齢は一回りも私が上であり、また専門も経済学と彼女とは異なりましたので、日常生活ではさほど濃い交流をしていたわけではありません。

でも大学生活最後は異分野領域を交えたジェンダー研究COEプロジェクトで6年間も御一緒でした。その研究会は若い竹村さんの存在なくしては文字通り完結しえないものであり、ほとほと彼女の知力だけでなく統率力には感嘆しておりました。そして時々美食家の教員数人と食事会をする若い同僚でもありました。

急の病を得てからは、家族がないに等しい竹村さんの夕食の介助が必要になり、彼女の住まいの近くにいる教員や友人・知人が喜んで手を挙げたわけで、その一人に私もおりました。

きっとそのお礼の気持ちでしょう、サクランボのプレゼントは。

私はさっそくお礼のはがきを書き、そのあとにサクランボを詠んだ俳人たちのお気に入りの数句を書き写し、竹村さんはどれが一番お気にめしましたか?としたためました。

返事は電子メールできましたが、それは「幸せの ぎゅうぎゅう詰めや さくらんぼ」(嶋田麻紀) でした。

ぎゅうぎゅう詰まっているのはサクランボではなく、「幸せ」の方です。竹村さんもサクランボの薄紅の輝きに、幸せを詰めて運ばれるのを願ったことでしょう。

これが竹村さんに時々俳句を書き写して投函した始まりですが、たまに新聞の批評や本のコピーなども一緒におくりました。

次のメールは2011年8月3日に受信したものです。

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「英子先生俳句と切抜き、頂きました。
先日送って下さった遺伝子と心の関係は、とても興味ふかかったです。
今日の漫画も面白かった。コボちゃんは、祖母が好きな漫画でした。

俳句は、
「がけ口に 淋しきものや 水羊羹」長谷川春草
が、心に残りました。

「崖口」と「水羊羹」の繋がりがよくわからなかったためです。
もしかしたら、漱石の『門』を下敷きにしているのでしょうか。本郷、真砂町の崖っぷちの下の借家に侘しく住んでいた宗助とお米は、水羊羹を食べたっけ?
和子」

これは私の大失敗で、竹村さんにすぐに「ゴメン、ゴメン」と謝りのメールをだしました。

というのは「がけ口に 淋しきものや 水羊羹」は私の転記ミスで「がけ口」ではなく濁点がずれており「かげ口」だったのです。

竹村さんがこの句の意味、不明といったのは当然です。むしろ私が驚いたのは、漱石の「門」を下敷きにしているのか?という鋭い推察をしたことに対してです。

というのは竹村さんが地上から姿を消してしまった5ヶ月後に出版された『文学力の挑戦 ファミリー・欲望・テロリズム』(研究社)の11章「ある学問のルネッサンス?」に目を通して、竹村さんが専門領域の英文学者としての漱石だけでなく、深く漱石の作品全般に精通していたことを改めて思い知ったからです。

だからこそ、改めて転記ミスで竹村さんにいらざる推理をさせてしまったことが、今となっては痛恨の極みとなりました。

竹村さんが、はがきやメールの最後にいつも書き残した言葉が、「必ず生還します!」という強い意志でした。

ある日、私の大好きな画家、オランダのヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864-1916)の絵ハガキを使って見舞い状を送りました。

この画家はいつも背を向けた女性(妻がもモデル)しか描かず、その女性がいる室内はといえば、言葉で表せば「静逸」になるでしょうか、当時の竹村さんに一番ふさわしいと一枚を選びました。室内だけの絵画の場合でもこれ以上質素はありえないというほど余分なものがなにもない画でした。

私が出したこのハンマースホイの絵ハガキの上に、竹村さんは力強い筆力で “Yes, I Stay Strong !”と書いて病室のベッド上部に、自分を鼓舞するために貼ったというのです。

2011年8月22日のメールがそう伝えております。

「篠塚先生、河野先生
一週間程前、篠塚先生が送って下さった絵葉書に、河野先生と、ガヤトリ・スピバックが、わたしに送ってくれた言葉を、主語をわたしに書きかえて、赤インクで書いて、ベッドヘッドに飾りました。
和子」

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竹村和子さん。あなたを失って今頃やっと、あなたが58年間を生きてきた姿勢、死を迎えるにあたっての姿勢が分かったのです。

竹村さんの生き方と研究姿勢は、なんと漱石とスピバックさんのそれと軸を同じくしていたのですね。

5年ほど前、竹村さんの個人的な強い交渉力によってお茶の水女子大学で超多忙なスピバックさんの講演が実現する運びになった時、竹村さんもコーディネートするので私にも是非とも聞きにきてといわれ、席まで確保していただいた講演とシンポがありました。でもせっかく参加したのに、最新のジェンダー論の専門用語が飛び交い、私にはいまいひとつ理解できない領域だったのです。

それがいまようやく、『文学力の挑戦』の11章302頁で竹村さんの語りに導かれて、やっと私は理解できたのです。

「漱石は、英文学とは何か、何のために本を読むのか自分でも分からなくなったという煩悶のすえに到達した原理を、「自己本位」という概念を使って説明しています。、、、、、

彼はこの「自己本位」という「個人主義」(この講演は「私の個人主義」と題されています)を説明して、

「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」ものであっても、「朋党を結び団体を作」るようなものではないがゆえに、「夫だから其裏面には人に知られない淋しさも潜んでゐ」て、

それゆえ、「ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです」(強調竹村)というものだからです。

むしろ漱石が到達した英文学における自己本位とは、ガヤトリ・スピバァックが比較文学に求める姿勢、「物語のなかに例示される文化をパフォーマティヴに行為する」ことに必要な「自己を他者化する」ことに近いかもしれません。」

そうだったのです。他人を尊敬するからこその自分自身の尊敬があり、それが真の自己本位、個人主義である、すなわち群れをつくり団体を作ることを排除して、一人ぼっちになるよりはかないのです。

スピバックさんのいう「自己を他者化する」こととはそういうことだったのだ、といまごろ納得できたのでした。

だから竹村さんはひとり群衆を離れた研究に突き進むことになったし、最後の死を迎えるときもその生き方を貫き、生前から、形式的な葬儀や別れの会、偲ぶ会などの群れを組むことがらをきっぱりと拒否したのかもしれません(これは私の想像ですが)。

そしてそう決めたときから、否、きっと決めていながら、淋しい思いをずっと胸に抱きかかえていたはずです。

ああ、いま想うのです。あのハンマースホイの後ろ向きの女性の絵ハガキは、まさに竹村和子さんの姿を表象していたものでした。

最後まで諦めなかった竹村和子さん。

私たちはあなたに出合えたことを、あなたが生きてきた人生を、研究し続けてきた姿勢を、そして群れないからこそ淋しい姿勢をその精神を、いま誇りに思いつつ抱きしめます。 (2012年7月1日記)








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

タグ:フェミニズム / 竹村和子 / 追悼