今年9月、北京社会科学研究所の胡澎教授から上野宛に李小江さんの病気についての知らせがあり、上野が李さんとやりとりしてこの記事の中国語版を入手した。それに日本語訳をつけて日本の読者に紹介したいと申し出て、著作権者の同意を得た。日本語訳は陸薇薇さんと任佳韫さん、魏金美さんによる。記して感謝する。

上野千鶴子記
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中国語原文:https://wan.or.jp/article/show/11496
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  李小江

企画:谷雨実験室 テンセントニュース 
2024年9月5日09:00北京

多くの人にとって、「李小江」は聞き憶えのない名前だろう。

彼女には、一人の女性学の研究者として名高い時期があった。40年前、フェミニズムの時代はまだ到来しておらず、中国の女性学の分野はまだ「不毛の地」だった。当時30代前半だった李小江は、鄭州大学の教師歴がまだ短い講師であった。自発的で抑えられない情熱から彼女は次々と『婦人研究叢書』の執筆、編集、翻訳監修をした。「李小江はほとんど独力で当時の女性学運動をリードしていた」とある学者が言う。その名声の絶頂期の彼女を「中国のシモーヌ・ド・ボーヴォワール」と呼んだ西洋の学者もいた。

しかし意外なことに、彼女は知名度が上がった途端、表舞台から姿を消した。何年も姿を見せないため、彼女が亡くなったのではないかと勘違いした友人もいる。実際は、遼寧省のある小さな町で隠遁生活を送っていた。面会も取材も受けず、いまもなお女性研究をしている。


思想家の栄誉と悲哀はその時代に由来している。李小江は時代に選ばれたり捨てられたりしたが、どちらのときもあきらめたりしなかった。彼女の著作『おんなを読み解く』の表紙には、「逆境であれ順境であれ、絶対に自分をあきらめるな」という一文があるが、彼女はそれを自ら実行した。

これは彼女の物語である。

執筆:張月   
編集:唐槭
翻訳:陸薇薇、任佳韫、魏金美
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李小江の自宅©張月

「私はもう死にそうです」

現在73歳の李小江は今もなお、熱心に働いている。毎朝5時に起き、6時からパソコンの前に座り、夜の8時か9時まで働く。休憩は、食事の時間と1時間の昼休みだけ。

彼女の中には、時間への切迫感と不安があるようだ。彼女の住まいには、書斎、寝室、キッチン、浴室など、至るところに時計があり、リビングルームの壁にはなんと4つの丸い時計が掛けられている。「頭を上げるとすぐ時間がわかるように」と。


今年の大晦日、彼女がアメリカ在住のある学者に、数本の論文の電子データをお願いした際、「どうしてまだ仕事をしているの?」と尋ねられた。若い頃の李小江は勤勉で多作の学者として知られていた。半世紀後の今日、肉体も精神も急速に衰えているにもかかわらず、彼女はまだ畏敬すべき意志を表している。この40年以上の旧友が電話の向こうで感服の声を上げると、李小江は「私はもう死にそうだよ」と大笑いした。

昨年の7月、李小江は大連のある病院で乳ガン再発と診断された。初めて乳ガンと確定診断されたのは2007年で、そのときは片方の乳房を失った。昨年、江西省で調査をしているとき、切開箇所に直径1センチの紫色の腫れ物ができたが、最初は現地の蒸し暑い天気による皮膚病だろうと思ってあまり気にしていなかった。後に大連の病院で確定診断されると、すぐに手術を受けたが、今年の3月に再検査を受けたところ、ガンは骨に転移していると医師から告げられた。乳ガンにおいて、骨転移は通常末期を意味するので、医学的に提供できるサポートはもうそれほど多くはない。

李小江の書斎のベッドの上に、日本のフェミニストである上野千鶴子から贈られた青黒色の水滴状のペンダントがぶら下がっている。上野千鶴子は昨年、戴錦華との対談で、李小江を「私が非常に尊敬する中国の女性学研究者」と称している。二人は今年会う約束をしていたものの、李小江の体調不良のためキャンセルせざるを得なかった。

  李小江

多くの人にとって、李小江という名前は聞き憶えがないかもしれないが、1980年代には今日より遥かによく知られた名前だった。当時30代前半の李小江は、鄭州大学の教師歴がまだ短い講師であった。自発的で抑えられない情熱から、彼女は次々と『婦人研究叢書』の執筆、編集、翻訳監修をした。「李小江はほとんど独力で当時の女性学運動をリードしていた」とある学者が言う。その名声の絶頂期の彼女を「中国のシモーヌ・ド・ボーヴォワール」と呼ぶ西洋の学者もいた。

彼女が主となって編集した最も影響力のある『婦人研究叢書』には、馴染みの名前が並んでいる。『歴史の地表に浮上する』の著者である孟悦と戴錦華、後に「中国の性科学の第一人者」と呼ばれる『性の社会史』の著者である潘綏銘、中国の人口学を創始した『中国の女性人口』の著者である朱楚珠などである。十数人の著者は、当時はほとんど無名の若手研究者だったが、後にそれぞれジェンダー研究の分野で代表的な研究成果を出した。その一方、それを後押ししていた李小江は、不思議なことに表舞台から姿を消した。


時代の潮流が移り変わる中で、李小江の時代に関心をもつ人だけしか、彼女のことに気を留めないだろう。ここ最近、李小江と連絡を取ったのは、西安交通大学のある女性学博士だ。「その博士は、中国にこんな人がいるのかって」「私が死んだと思っている知り合いも多いのです」と、李小江は話してくれた。

私は昨年の谷雨実験室のある記事を通じて李小江のことを知った。フェミニズム関連書の出版ブームで、その記事の執筆者は李小江を対談に招こうとしたが、「流行、特にフェミニズムの流行を追いたくないから」と婉曲に断られたという。李のこの返信は、私の好奇心の原点となった。フェミニズムの語りが一種のトレンドとなった今、かつて誰よりも一歩先に出て、一人歩きをしていたこの学者は、かえってフェミニズムと距離を置いているように見えたからである。 同時に、私は彼女の人生経験にも興味を持つようになった。なぜ彼女は突然姿を消したのか?人々に忘れられるくらい長い間、彼女は何をしていたのか?何を考えていたのか?そして、今、何を考えているのだろうか?
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「死ぬか働くかだ」

李小江が大連大学を定年退職して10年以上の時が過ぎ、現在は遼寧省の荘河市に住んでいる。荘河は黄海の北岸の小さな町で、大連に近い。10本以上の川がここで海に流れ込んでいる。

私が彼女に会うまでにはさまざまな紆余曲折があった。彼女はこの小さな町で、隠遁生活と言える静かな日々を送っている。見舞いに訪れたい友人もいれば、彼女のことを博士論文のテーマにしたい海外の大学の博士課程の学生もいたが、断られている。私も2回ほかの人を通して彼女に連絡を取ろうとしたが、「時間が限られているから邪魔されたくない」と断られた。家族にさえ邪魔されたくないという。彼女の夫や息子はめったに荘河に行かないし、2歳の孫もオンラインでしか会ったことがない。「彼らを来させないよ」と彼女は言う。そして、彼女は隣人の過剰な親切も苦手だ。それは社交上の大きなストレスとなるからだ。

李小江©林琳

私は荘河のある喫茶店で李小江と面会した。彼女は背が高い女性で、痩せこけているように見える。分子標的薬のせいで髪が抜け落ちたため、ピンクの毛糸の帽子をかぶっていた。それ以外は、目の前のこの人が不治の病と闘っているようには見えない。彼女は潔く疑念のない目をしており、声も甲高く、しばしば大笑いもし、患者の虚弱さや落胆などはほとんど見せなかった。

私たちは喫茶店で過去のいろいろな人物や出来事について話していたが、彼女は歴史学者並みの精確さを示した。三、四十年前の場所、年度、人名、相手の専門、その後の行方……。私は後で資料を調べてみたが、その5時間以上にわたる対談の中で、彼女はほとんど間違えていなかった。それは彼女の日記をつける習慣のおかげかもしれない。彼女の本棚には日記帳だけを置く段があり、青年時代からの1冊1冊に通し番号が貼られている。番号の小さなものは非常に古く見え、最新の1冊の番号は87だ。もちろん、この精確さと明晰さがいつまで維持できるのかはわからない。乳ガンは通常、骨転移と脳転移の2種類があり、彼女は骨転移であることを知ったとき、「脳転移でなくてよかった」と喜びさえ感じたらしい。

李小江編集『女性にも語ってもらう』4冊©李小江

李小江には、仕事のために明晰な頭脳を維持する必要がある。彼女は今、千本以上の女性の口述資料を整理しなければならないからだ。1990年代、彼女は当時の中国最大規模の女性口述史の調査研究を組織し、10年をかけて抗日戦争時代の女性軍人、一般の農婦、慰安婦など、数千人の女性にインタビューした。そして、2003年に『女性にも語ってもらう』(4冊)を出版した。乳ガン再発が確定診断される前は、陝西省、江西省、雲南省などで長年にわたってフィールドワークを行い、多くの農村女性、少数民族の女性、そして女性の職人にインタビューした。また、ここ2年、盧山万杉寺の30人の比丘尼にもインタビューした。

「歴史は私の個人的な興味ですが、それは2つの『不信感』と関係しています。一つは、自分のいる環境で教えられた歴史に対する不信感、もう一つは男性中心の歴史学研究に対する不信感です。反抗心のためか、私はやむを得ず歴史の研究を選んだのです。自分自身の努力によって真実を発見しようと考えたのです。それは結局できないだろうとはわかってはいますが、その過程は自分にとって慰めになります。少なくとも、自分の目と耳で見聞きしたことは、教科書で語られた歴史より真実に近いですから」と彼女は言った。

彼女は一般的な女性たちにインタビューした経緯を話してくれた。33の民族の居住地や100以上の村を訪れ、小さなテープレコーダーを持ち、女性たちの家に座って彼女たちと話し合い、百万字以上の調査メモを残した。彼女は、陝西省旬邑村の切り紙が得意なある農婦が、オンドルの上に自分の人生を物語る12枚の切り紙を並べ、これらの身の上話を口ずさんでくれたことを覚えている。この農婦は17歳で結婚し、結婚後は夫からの家庭内暴力に苦しみ、生涯幾多の挫折を繰り返し、灰色の日々を送っていながらも、色鮮やかな切り紙を創作してきた。

李小江は、生活が苦しくてもあきらめない女性の自己表現に感心し、自分の病状がさらに悪化する前に、これらの資料の整理と分類を終えたいと願っている。

ある意味、これらの仕事があるからこそ、彼女の生活が落ち着き、死を前にしてもうろたえることがないのだろう。彼女が机の前に座るにも、多くの困難を乗り越えなければならない。例えば、骨転移のせいで常に体が痛むし、今服用している分子標的薬でアレルギー性皮膚炎が起こりやすいし、疲れも感じやすいので、自宅のマッサージチェアでしばらく横になる必要もある。白血球が少なくて常に寒気がするため、机の下に足温器を常備している。

それ以外のことに時間を費やすことはほとんどなく、無欲の生活を送っていると言える。自宅で頻繁に使われている電化製品は電子レンジだ。ある友人は彼女のところで印象的な食事をしたことがある。数切れのパンを電子レンジでチンして、ゴマ味噌味のソースをつけ、キュウリを2本潰し、塩だけで味付けをしたという。「なかなか表現しがたい食事だったが、李先生は普段いつもそういう食べ方をしているようです。料理にこれ以上時間をかけたくないからです」とこの友人は説明してくれた。

上野千鶴子と李小江

2019年9月、李小江は当時客員教授として務めていた陝西師範大学に、中国訪問中の上野千鶴子を招き、「超高齢社会における福祉とジェンダー」というテーマで講演をしてもらった。講演とは別に二人は対談も行ったが、生命への態度という話題になると李小江は、「ボケても死にたくない」という上野千鶴子の考えに反論し、「死ぬか働くかだ」と主張した。「人生そのものはとても面倒なことです。仕事をして始めて人生は面白くなりその価値が実現されるのです。それがないと、生命を維持することはつまらないことです」と。
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「もう、あなたの大きな夢は叶えられないよ」

李小江は自分の人生について、いろいろなパターンを考えていたが、いずれにしても女性学の道はその中の一つではなかった。

彼女は背が高かったので、バスケットボールの選手になったことがある。田舎に送られた時、(優れた技術を持つ)配管工として働いたこともある。文化大革命が終わった後、彼女は大学に行けるようになった。最初は美学を学ぼうと考え、朱光謙先生に師事したいと思ったが、その先生は高齢のため新しい学生を指導していなかった。彼女は仕方なく第二志望の文学を専攻し、1979年に河南大学文学研究科に入った。彼女は聡明で勤勉だったので、イギリスの作家トマス・ハーディを研究していた指導教官の牛庸懋教授は、彼女が自分の後を継ぐことを望んでいた。教授のこの願いは当然叶わなかった。牛庸懋は何年も経った今でもそのことを残念に思っている。「小江は女性学の道に進まなければもっと成功しただろう」と。

1951年生まれの李小江は、同世代の多くの女性たちと同じように「男女平等」という言説の下で育ってきたと私に語った。彼女の記憶のなかでは、新聞や雑誌には「女性は空の半分を支える」とか「鉄の女」といった言葉が飛び交っていた。中国では、毛沢東が「時代は変わった、男も女も同じ」と言ったことから、「女性解放」というスローガンが生まれた。そうした中で、多くの女性が伝統的な男性の領域とされていた分野に入ることができるようになり、初の女性トラクター運転手、初の女性ドライバー、初の女性工場長などが誕生した。アメリカの歴史学者ハーショウは、陝西省南部の4つの村を調査し、村人たちとの会話を『社会的性別』という本に記録した。「男女平等とはどんなことだと思いますか。」「男女平等とは、男の人にできることは私にもできるということです。たとえば、男の人が水や土を運べるなら、私にもできれば、彼らが石を持ち上げられるなら、私にもやれます」。

李小江はこれらの言葉を固く信じていた。幼いころの彼女は、木登りや塀越し、はじき弓が好きな、男の子以上にワイルドな「おてんば娘」だった。16、17歳で田舎に行くと、稲束を運んだり、ざるを振ったり、麦を植えたりと、男に負けじと最も疲れる肉体労働を積極的にこなした。同時に、李小江は男性と同じように、大きなことを成し遂げたかった。あるとき彼女は、イギリスの作家ジャック・ロンドンの伝記『馬に乗った水夫』という本を読む機会があった。船乗りとしての作家は、昼は嵐や寒さにさらされ重労働を強いられているにもかかわらず、夜になると、ベッドのなかでランプを手に持ち、トルストイ、フローベール、モーパッサンなどの作品を読みあさった。その作家を見習おうと、彼女は日中の労働がどんなに辛くても、夜はかならず本を読んでいた。また、こっそりラジオを手に入れて、人のいない場所を見つけてイヤホンをつけ、ひそかに英語を学んだ。当時の政治情勢ではこれは間違いなく危険なことであり、ルームメイトに「蒋介石から派遣されてきたスパイ」ではないかと疑われたといった記憶もある。

そのような環境の中で、女性学という研究分野も存在しておらず、李小江も男性と女性に違いがあることにはほとんど気付かなかった。「いわゆる『平等主義的』な環境では、自分自身のジェンダー・アイデンティティを自覚することは難しかった。自分は女性であることは知っていたが、『彼女』という言葉に特別な意味があるとは思っていなかったし、『彼女』が男性と何が違うのかも知らなかった。当時、もし誰かが女性学を提案したら私は猛反対しただろう」と。

その考えを変えさせてくれたのは結婚と出産だった。

1975年に李小江は結婚し、2年後に息子を出産した。彼女がある文章で「結婚しないと決めていたのに、恋に落ち、それがきっかけで他の人と喜んで暮らすようになりました。結婚したとき、私は子どもはいらないとも言ったのですが、すぐに私たちの愛の証としての子どもが必要だと強く思うようになったのです」と綴っている。出産後、見舞いに来てくれた母親の言葉を今でも覚えている。「もう、あなたの大きな夢はかなわないよ」

母親の言葉は正しかった。当時、李小江は大学院に通っており、勉強、子供、夫、家事......どれも彼女のエネルギーと時間を消耗することになった。そんな日々に追われた末、彼女は疲れ果ててしまった。ある大事な試験の前日、息子が高熱を出し、夜明けまでに熱が下がらないようなら試験をあきらめようと思いながら、夜を徹して看病をしたことを覚えている。幸い息子の熱は下がり、彼女は試験に間に合った。

彼女はやりきれない苦しみを感じた。「いままでの独立した行動様式と価値観を自分に要求するのであれば、至るところに障害ありという感じでした。しかし、それらをあきらめるわけにもいきませんでした。このときはじめて自分が歴史的な『女性』という落とし穴に落ちていることに気づきました」

李小江は負けず嫌いな人だ。彼女はその苦しみから戸惑いを感じ、そしてその戸惑いを解明しとうと決意した。なぜ「男女平等」や「男女は同じ」と言われる社会において、女性だけが二重の役割、二重の負担、二重の人格のジレンマに陥るのだろうか。彼女はその理由を知りたかった。

誰も彼女に答えを教えてくれなかった。1986年まで彼女が直面していたのは、中国大陸部では、女性に関する専門研究機関が一つもないばかりでなく、関連する理論誌も発行されていないという現実だった。そして、どの大学も専門的な女性学を教えるためのポジションや学位を開設していなかった。李小江はほぼ一人でこの仕事を始めたのだった。

  李小江

「女性研究への道に進ませてくれたのは、社会や十年の災難でもなければ、職業でもない。むしろ女性の経験そのものがそうさせてくれたのです。それはほとんど自分の個人的な問題だったと言えます」と彼女は話した。

当時、資料が不足していたため、彼女は手に入れられるすべての本を読み漁った。まず歴史書と哲学書から始めた。彼女は寝ることも忘れるぐらい、フロイト、ハイデガー、フッサール、サルトルなどの著作に没頭した。ルームメイトは彼女を「本業を放棄している」とからかった。同期だった鄭慧生は、後になって秦の歴史と甲骨文の研究に絞ることにしたが、李小江は彼に甲骨文中の女性に関する情報を一文字ずつ説明してもらった。また『山海経』の中のすべての女神についても一文ずつ紹介してもらった。

その結果は彼女をがっかりさせるものだった。彼女はこう言った。「私は史書で女性の歴史を探し求めていましたが、女性がどの歴史書にも載っていないことに気づきました。哲学も同じです。哲学者のうち99.9%が男性で、多くの人が結婚していませんが、彼らの生活を女性たちが支えています。人類は男と女から成り立っていると言いますが、どうして人類に関するあらゆる学問や歴史の中には女性の存在がいないのでしょうか?」

女性の「歴史における不在と失敗」を知らされた後、李小江は女性の「存在」を取り戻そうとした。彼女は「文学の中の女性」を自分の研究方向に定めた。1982年に卒業した後、彼女は鄭州大学中国語学科で教鞭をとり、初の女性文学の講義を開設した。

李小江が女性研究学者として知られるようになったのは1983年である。彼女が雑誌『マルクス主義研究』に『人類の進歩と女性の解放』というタイトルの論文を発表したからだ。この1万7000字もある理論的な文章の中で、彼女は世界における女性の社会的地位と女性権利の歴史的変化を整理したあと、自身の見解を大胆に述べた。それまでの主流の見解では、社会主義は階級の解放を実現すると同時に女性の解放も実現するとされていたが、彼女は「階級の解放は女性の解放をもたらすとは限らない」、「女性の進歩と社会制度の変化は常に同時に起こっているのではない」と主張した。さらに、彼女は「男性と女性は同じ」という言い方を疑問視し、男性と女性は同じではないと述べた。「男性と女性の(生理的な)違いは階級の違いと別種の違いであり、ある意味ではより普遍的なものです」と。

李小江は文章の終わりの部分で、フランスの空想社会主義者フーリエの言葉を引用している。「ある時代の発展状況を判断するには、常に女性がどれだけ自由になっているかを見る必要がある。なぜなら最もはっきりと人間性が動物性に勝っていることが反映されるのは女性と男性の関係性だからだ。女性解放は、人間解放を測る自然な基準なのだ」

この論文は大きな波紋を引き起こした。「男性と女性は同じだ」とされる社会にいながら、彼女は「女性は男性とは異なる」と主張したからだ。「李小江が性別論争を起こしている。彼女はアメリカ留学経験者であり、ブルジョア・フェミニズムの代弁者である」とひどく批判されたが、実際、李小江はそれまで海外に出たことがなかった。一方、李小江の支持者は、彼女が女性すべてを凌駕する階級、国家、民族といった包括的な次元から切り離し、個々人の本当の感情に戻らせ、女性の主体性に気づかせてくれたと賞賛した。

論文が発表されてからしばらくの間、彼女のところには毎日全国から何百通もの手紙が寄せられ、中国語科の手紙配達係は彼女のためのカゴを用意しなければならなかった。

女性研究を始めたばかりの時、李小江は自分の状況について、「敵もいないし、戦場もない。そして、仲間もいないし、支援もない」と言ったが、この論文が発表された後、彼女は悲喜こもごも多くのものを手に入れることができた。
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「私は離れなければならなかった」

梁軍が李小江と知り合ったのは1985年のある講座の時だった。李小江は白地にグレーの縞のあるワンピースを着て教室に入ってきた。彼女は背が高く、見た目は上品だが、口を開くと声が少し甲高いので、私は心の中で「彼女の発声位置は正確ではないな!」と思ったと梁軍は当時の様子を文章に書いている。

しかし、彼女はすぐに李小江の話に引きつけられた。李小江が話したテーマは「女性の自己認識」であり、内容は女性の男性と異なる生理的、心理的特徴や、女性のライフサイクルの「中断」、女性の二重の役割の衝突などについてだった。講座の終わりにかけて、李小江が「私たちは女性である以上、堂々と女性の存在や価値と向き合って、女性としての挑戦を受け入れなければなりません」と締めくくったことを梁軍ははっきりと覚えている。

講義中、泣いている人もいた。梁軍も講義を聞いた後、とてもショックを受けたことを忘れられない。当時40歳だった梁軍はスランプに陥っていた。彼女は北京師範大学歴史学科を卒業した後、河南財経学院で教鞭をとっていた。キャリアアップという大きな夢を持っていたが、結婚生活によって次第に気が滅入っていった。「仕事と家庭という二つの重荷に耐えられず、どちらもあきらめられないので、苛立ちと苦しみと不満に明け暮れ、次第にどうしようもなく生活に振り回される女になってしまいました」。だが結局、彼女はあきらめるしかなかった。1985年の初夏、彼女は当時専門学校だった婦人幹部学校に移り、世界史を教えるようになった。ここでの仕事は忙しくなかった。「私はただすこし楽になりたかっただけです」

その後、梁軍は李小江に会い、自分の抱えている問題を打ち明けた。すると、「私から見れば、あなたは典型的なインテリ女性で、思いやりと責任感のあるいい先生です。特に表現力が高い」と言われた。そして、「あなたは婦人教育に向いていますね。もしよかったら、私の『女性の自己認識』の講演原稿を譲るので、講演で話したら?」と李小江が言ったことを、梁軍はその後の文章に書いている。

まだ完全には消えていない闘志のためか、当時「女性」について何も知らなかった梁軍は李小江のバトンを受け継いだ。それから8年間、彼女は中国の都会や地方都市を回り、女性教育に関する講演を2000回近くもおこなった。ある時、講演に間に合うために、農薬を散布するヘリコプターに乗ったこともある。小型機だったので揺れがひどく、墜落してしまうのではないかと心配になった。

梁軍の講演はとても人気があった。彼女の講演に参加する人の中には、農家の女性、工場で働く女性、女子大生、女医、女性教師、女性幹部など、さまざまな人がいた。「女性についての無知が、ほとんどすべての女性を悩ませていることに気づきました。講演台に立っている間、私はその場にいる聴衆との一体感を感じていました。私が女性について語るのは、自分自身について語っているようなことです。私自身にある女性意識の目覚めは、同時に彼女たちにも目覚めさせるきっかけになったのです」

梁軍が全国各地を回って講演をする間、李小江は別の大仕事に取り掛かっていた。女性のことを人類のどの知的領域にも入れてもらえていないことに気づいた後、彼女は女性研究に関する新しい学科を開設しようと考えたのだ。彼女の考えでは、女性を感覚的に捉えるということよりも、理論レベルで論じることによって、「女性」を認識論の文脈で位置づけるべきだ、と。

「当時、そこ(学界)には厳格な制度と疑いの余地のない評価基準がすでにできあがっており、そこには女性の居場所がなかった。女性が科学的価値体系から外されていた。そんな女性無視に満ちた学界に耐えられず、私はそこから離れなければならなかった。そして、独自の力で女性学を創設しなければならなかった」と李小江は話す。

1986年、河南人民出版社の編集者陳智英は彼女を訪ね、女性に関する本のシリーズを出してくれないかと依頼した。李小江は、もしそれをするなら女性研究に関するシリーズでなければならない、そして、もし自分に任せれば、できあがったものは女性をネタにしたベストセラーではなく、赤字になるかもしれない堅い学術書でなければならないと率直に伝えた。結局、編集長の趙燐の判断で『婦人研究叢書』を出版することが決まり、それは重点出版プロジェクトとなった。 

杜芳琴は叢書の中の一冊『女性の考え方の変遷』という本の作者だ。彼女は当時、天津師範大学政法系の講師をしていた。中国語史が専攻だったので、『説文解字』と秦の典籍を研究するのが好きだった。また、暇な時は古代旅行記の散文に注釈をつけたりもした。李小江から本を書かないかと誘われるまで、彼女は「女性学」については何も知らず、李小江の『人類の進歩と女性解放』という本を読んだぐらいだった。

1986年、鄭州における『婦人研究叢書』に関するシンポジウム©李小江

1986年、彼女は李小江が主催する女性学理論のシンポジウムに参加するため2ヶ月かけて「中国の歴史上の女性像について」という論文を書いた。これは彼女が初めて歴史の中の女性をテーマとしたものだった。実証的な歴史研究に基づいて書いたものの思うように仕上がっていないと彼女は感じた。そのためこの論文はシンポジウムで発表されることはなかったが、李小江に論文の存在を知られてしまった。(その論文を読んだ)李小江は、『女性の考え方の変遷』という本をぜひ杜芳琴にお願いしたいと言った。

内向的で繊細な性格の持ち主である杜芳琴は、はじめはこの仕事は自分には無理ではないかと恐縮した。彼女は自分には理論的な基盤がなく、中国語史の勉強で培われた史料を収集する能力しかないと考えたからだった。実際、1987年の夏、執筆の計画を報告するためにシリーズの執筆者たちが河南省に集まった際、杜芳琴さんはあまりにも緊張したため、自分の執筆概要や書きかけのものをみんなの前でうまく発表することができなかった。「私は常に自分はあまり洞察力がないと思っていて、みんなに笑われるのを恐れていた」

会議の後、李小江は困った杜芳琴に励ましの手紙を送った。「強くなってください。自分を信じるしかありません。ほかの人に認めてもらうことはありません。自分を救えるのは自身のみです」

一年後、杜芳琴は完成した原稿を李小江に手渡したが、半月後、「彼女(李小江)は今でも涙が出るほど温かい賛辞を返してくれた」。杜芳琴はある文章の中でそう振り返った。この本を契機に、杜芳琴は女性研究に専念するようになり、後に天津師範大学女性学研究センターの主任となって、中国女性学を代表する人物となった。

鄭永福もこの『婦人研究叢書』の著者の一人だ。1987年に、李小江から中国女性史の本の執筆を持ちかけられた際、それを婉曲に断った。鄭永福は、当時河南大学歴史学部の副学部長を務めていたため、自分の研究と学部の仕事で忙しいと伝えた。しかし、これは本音ではなく、彼は後にある文章に本当の理由を書いている。「実は、断ったのは私の中に偏見があったからです。女性史はたいした学問とは言えず、表舞台に出せるようなものではない、まして男性の私が女性の研究をするなんて笑われるかもしれない。当時、私はすでに自分の研究領域でそれなりの業績を上げていたので、あえて女性史の分野に乗り出して、割に合わないことをする必要はまったくありませんでした」

しかし、李小江はあきらめず、鄭永福を何度も説得した。1988年の夏、鄭永福はついに承諾した。「あまりに好意的だったので、断れませんでした」。鄭永福の妻、呂美頤もまた歴史学者であり、二人は中国女性運動史と現代中国における女性の生き方について、2冊の本を共著で出版することにした。鄭は執筆前、李小江にある要求を出した。彼が女性学を研究することは公にせず、水面下で行うことにしてほしいというものだった。というのは、鄭永福の恩師である河南社会科学院院長(当時)の胡思庸教授は、鄭永福を我が子のように可愛がっており、彼の中国近代思想史研究に常に大きな期待を寄せていた。そんな恩師に自分が「非生産的」な女性研究をしていることが知られたくなかったからだ。

1993年、胡思庸教授が亡くなり、鄭永福は別の教授から恩師が自分のために書いてくれた学術評価報告をもらった。そこには、「『近代中国の女性の生活』という本を読んで、とても嬉しくて、楽しくて、ほっとしました。この作品は海外に渡り、国内外で大きな影響を与えることになるでしょう」と書かれていたのだ。それまでの数年間、鄭永福は恩師に自分の研究について話したことがなかった。恩師を失望させたに違いないと思っていた彼は、目の前の見慣れた筆跡を見ながら涙を流した。

杜方琴や鄭永福のような著者を、李小江は20人近く訪ねた。歴史学、文学、セクシュアリティ研究、美学、人口学、社会学などさまざまな分野から集まった人たちが、それぞれの異なる分野で、女性の「位置」を見つけてくれることを彼女は望んでいた。1987年、鄭州大学に勤めていた李小江に、オックスフォード大学に客員研究員として一年間滞在するオファーが入ったが、彼女はそれを断った。「私が行ったら、『婦人研究叢書』の話は立ち消えになるでしょう」と。

叢書の著者の約半数は男性だが、李小江はそれについて何とも思わなかった。彼女はこう言った。「女性の問題はみんなの問題で、みんなでやるのが一番だと思いました。形にこだわらず、性別や能力、そして立場に関係なく、その人に一番ふさわしいことをやってもらえればいい。私はできるだけみんなを集めて、適任者を見つけるように心がけていました」

 李小江の『婦人研究叢書』©李小江

この『婦人研究叢書』は、1980年代後半から1990年代前半にかけて次々と刊行された。白い表紙に無地の装丁で、全部で17冊だった。当時はもちろん、その後も学界に多大な影響を与えた。ライス大学教授で長年中国女性史を研究してきたTani E. Barlowは、「当時、女性に関する学術研究は李小江の『婦人研究叢書』とほぼ同義語だった」とコメントしている。
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「新しい理論が必要」

中国におけるフェミニズムの歴史を振り返ると、1995年に北京で開催された「第4回世界女性会議」は、避けて通れない画期的な出来事だ。そしてその会議は、李小江の人生の節目でもあった。 1995年4月、「第4回世界女性会議」は北京の懐柔区で幕が開けられた。中国政府は「男女平等」を、社会発展を促すための基本的な国家政策とし、ピンクのスーツに身を包んだヒラリー・クリントン米大統領夫人が「女性の権利は人権である」という有名な演説をした。当時、中国における人気スローガンは「つなぐ」(世界とつなぐこと)であり、現在私たちがなじんでいる「フェミニズム」(当時は西洋女権主義と呼ばれていた)は、この会議後、やっと中国に入ってきた。

李小江から見れば、これは中国が初めて主催した国際会議であった。「経済や政治がうまく行かない状況の中、中国の女性解放は、当時唯一世界にアピールできるポジティブなカードだったのです。全世界がそれを認めたため、女性問題はあっという間に国の問題となりました」と彼女は話す。

会議の準備に携わっていたある関係者によると、会議の前、中国の「全国婦女聯合会」は中国のNGOを代表して2つのフォーラムを開催するために李小江を招いたが、断られた。李はその後書斎に戻り、表舞台から姿を消したという。

李小江は、常に権力を警戒していると私に語った。彼女が『婦人研究叢書』を編集していたとき、出版社は「婦女聯合会」の幹部を顧問に招こうとした。彼女はそれに対して違和感を抱き断ったらしい。そして、別のシリーズ『女性にも語ってもらう』の序文に、彼女はこう書いている。「女性たちが自分の言葉で語れるように、そして、邪魔や妨害を避けられるよう、編集中は公式な組織の関与は一切避け、公的資金の援助もまったく受けなかった」 40歳という真っ盛りの年に、彼女は副県長レベルの幹部にまで昇進する機会があったが、自ら辞退をした。

李小江の母方の祖父も父も地方公務員であった。しかし、彼女はいかなる党派にも属することはなかった。母方の祖父から「何かの組織に入ったほうがいい」とアドバイスされたが、彼女はそれに同意しなかった。「独立した知識人でいるためには、このような職務をあきらめるべきであり、『合唱』に参加すべきではないと思いました。だから結局ひとりぼっちになってしまったのですね(笑)」。

権力を警戒しているのは「文化大革命」の経験から来ている。1966年、文化大革命が始まった翌日、李小江さんの父親が撃退された。彼は当時、河南省のある大学の副学長だった。15歳の李小江さんは、父親が帽子をかぶせられ、街中を引き回され、そして頭に墨汁をかけられたのを目にした。その後、父親は殴られ片耳が聞こえなくなった。またあるときは階段から蹴り落とされ、肋骨が3本折れた。さらに、学生たちが(訳注:本を運ぶための)シーツを持って家宅捜索にはいり、マルクスとレーニンの全集を除いたすべての本を持ち去った。

李小江は起こっていることが理解できなかった。幼少の頃、父親から共産主義の後継者になるように言われ、それを真剣に受け止めていた。「共産党はソヴィエト政府を設立し、レーニンは、次の段階は全国を電化することだといっていた。当時の私たちはそれを当たり前のことだと思っていた」。彼女はまじめに理系の勉強をし、電化に貢献しようと考えていた。文化大革命が始まる前に、李小江はすでに自分でダイオードラジオを組み立てることができていたが、それらの機械もまた、家宅捜索に入った学生たちによって持ち去られ、彼女は「黒五類」(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派家庭の出身者)に分類され、「黒五類」の一員として学校の黒板に名前が書かれた。

 李小江

彼女は家に唯一残っていたマルクスとレーニンの全集を読み始め、理解できないときはさらに熱心に読んだ。今でも、『資本論』を読んだときのノートを大切にしている。「そのときの考え方はとても単純で、結局、どのような基準にしたがって人の人生を赤か黒かと決めるのかを知りたかった。私たちは昨日まで共産主義の後継者だったが、今日はいきなり黒五類になった。それはなぜなのだろうか?」

この辛い経験から、彼女は常に「イズム」(主義)と呼ばれる主流の言説を警戒してきた。「すべての知識は他人から教えられたもので、人の言うとおりに自分も言うようになりやすい。公式的な言説のもとでは、個人は小さくて無力だが、完全に救いがなくて出口がないというわけでもない。読書は、いつでも、窓を開く近道なのだ。そして、自分自身に正直であることも大事だ。生活におけるリアルな感覚は、善悪を分別するための本能であり、人間としてのボトムラインである」と彼女は言う。

フェミニズムに関してもそうだ。「イズム」のことだけでなく、彼女は中国におけるフェミニズムの普遍性に常に懐疑的であり、そして、その懐疑的な態度は今でも変わっていない。

李小江は、はじめて中国にフェミニズム理論を紹介した学者の一人であり、1980年代、『第二の性』や『新しい女性の創造』(The Feminine Mystique)などのフェミニズム代表作の翻訳を企画した。フェミニズムと必要な距離を保っていたのもその頃からだと彼女が教えてくれた。当時、『第二の性』や『新しい女性の創造』は中国であまり受け入れられなかった。それはなぜだろうか。李小江から見れば、「中国の女性が置かれていた現実は、当時のアメリカ女性が置かれていた現実とはあまりにも違っていた。例えば、アメリカの女性たちは家庭内に閉じこもっていたが、私たちはほとんど社会の中にいた。彼女たちは伝統的な性別役割分担に戻り、自分自身を見失ったのに対し、私たちは伝統とかけ離れた方向で『女性らしさ』を失ったのだ」。当時、私たちの社会においても女性がたくさんの問題を抱えており、これらの著書は一時期には話題になったが、痒いところに手が届くどころか、何の役にも立たなかった」

  王政

ミシガン大学の女性学学科と歴史学科の教授である王政は、李小江と同世代の人物で、1985年にカリフォルニア大学デービス校で女性史を学び、「世界女性会議」後、中国にフェミニズム理論を紹介した中心人物である。「1980年代、李は女性の政治上の主体性を実現するために、『女性らしさ』や『女性意識』を通して女性を『階級』という支配的なカテゴリーから切り離そうとしたが、1990年代の中国女性がまったく異なるジレンマに直面し始めていることを見落としていた」と彼女は語ってくれた。

1990年代に市場経済の改革が始まると、中国の国有企業は大規模な組織・人事合理化に乗り出し、1998年から2000年にかけて、国有企業は「3年で苦境を打破」という政府のスローガンの下、毎年700万人から900万人の労働者を解雇した。それは中国建国以来の最大の解雇の波となった。1999年の「春節連歓晩会」(中国の新年を祝う国民的テレビ番組)で、お笑い芸人の黄広は有名な一言を残した。「労働者は国を優先に考えるべきだ、私でなければ誰が解雇されるのか」、と。


その中で、女性は特に大きな打撃を受けた。「知識青年」(訳注:文化大革命中、都市の初級・高級中学の卒業生を指す。彼らは辺鄙な農村を支援するために動員され、そこに住みついた)が大量に都市部に戻った1980年代初頭から、すでに雇用危機が顕在化していた。当時、一部のエコノミストは、女性の完全雇用は不可能だと指摘し、雇用のプレッシャーを緩和するために「女は家に帰れ」(婦女回家)と提案した。この提案には「婦女聯合会」も強く反対したが、それでも女性の雇用は厳しさを増すばかりであった。大量の女性労働者が解雇され、女子学生はなかなか職を与えられず、かつて社会生産に携わっていた女性の多くが競争に敗れ、家庭に戻り、再び専業主婦となった。 

1990年代には解雇の波が押し寄せてきた。女性史を研究する中国人民大学の宋少鵬教授は、論文の中で、1990年代の雇用機会の減少は男女の間で均等ではなく、解雇された労働者の60%は女性が占めていたと書いている。「女性は一時的な労働(いつでも労働市場から排除される可能性がある)や、フルタイムで仕事に従事できない(家事労働に気を取られる)という理由から、『劣った』労働力とみなされ、労働市場から疎外されたり、排除されたりしていたのです」

王政は、女性の失業に関する議論の中で、一部の知識人が世論において女性の社会的役割を再構築し始めたと語る。「『昔のような男女平等の理想、つまり、均等主義的な考え方は市場経済の規律に反するため、捨てなければならない。男女の間の新たな平等は、権利や分配の平等ではなく、男女間の価値の交換の平等である。たとえば、サービス業、秘書、営業などの職業においては、女性が自分の価値をよりよく実現できる』と言う人がいます。また、国や経済の発展のために、中国人女性は日本人女性に学び、家庭に戻って良妻賢母となり、国のために自己犠牲をすべきだという意見もあります」

市場経済の熱狂と消費主義の確立によって、性と身体は次第に商品となった。王政は1990年代に中国に戻ったとき、このような変化をしみじみに感じた。新聞や雑誌に登場する女性像は、かつてはたくましい農村の女性像だったが、今はさまざまな「現代的」な女性のイメージに変わっている。「基本的な要素は、消費主義+伝統的な女性の美徳+セクシーさであり、女性は販売の対象になってしまった」と彼女は言う。中国の「婦女聯合会」が編集する『中国婦人』という雑誌の表紙にさえ、セクシー的な女性像が現れている。王政は全国女性セミナーに出席したことがあるが、そこでマスメディアの性差別について調査した「婦女聯合会」の研究員は、いくつかの女性誌の表紙を参加者に見せた。その中、一つの表紙には「女はベッド上用のもの」と書いてあり、会場は騒然となった。

王政から見れば、1980年代の中国社会の思想の潮流は、文化大革命の極左路線を反省することであり、李小江の理論もその反省の一部であった。李小江は男女の生物学的差異を強調することを通して、女性意識と女性の復権を訴え、国家による個人への絶対的支配から脱却し、女性のためのスペースを切り開こうとしたのである。しかし、彼女の「女性に戻る」という論は、市場経済の前では「無防備」であり、取り込まれる恐れがあった。

「この自然的な女性意識は、伝統的なジェンダー・システムに挑戦できていない。つまり、「男と女は同じである」という主流の言説を脱構築する力しか持たず、男尊女卑の伝統文化には何の影響も及ぼさない。そのため、市場経済は滞りなく女性の意識を受け入れ、同化し、活用することができるのである。市場経済において、女性はおしゃれをし、化粧をし、自分を表現する自由を得たが、一方、男性の従属物や遊びの道具にもなった」と王政は言う。「女性の違いを強調することは、その違いを生み出す家族や社会構造を変革する必要性を忘れることになる。そして、女性の違いはしばしば女性に対する不平等な扱いを合理化するために使われていた」

王政は、中国の女性研究者のほとんどがこのジレンマに気づいていたことを覚えている。「世界女性会議」の前に、全国の女性研究者が天津師範大学のシンポジウムに集まった。そのシンポジウムで王は、当時の西洋フェミニズムの最も重要な理論的成果であったジェンダーを参加者たちに紹介したという。

ジェンダーとは、生物学上の性別、つまりセックスに対する概念であり、女性の社会的役割は生物学によって決定されるのではなく、社会や文化によって形成されていると主張し、ジェンダー・バイアスの背後にある権力や社会的要因を考察することに重点を置いたものである。「生物的要素は女性の運命を決めるというわけではない。男女の役割分担は社会的・文化的変化の中で変えられるのである」

王政は、当時、多くの人々がジェンダーに強い関心を示していたことを記憶している。「私は2週間の間ずっとよく眠れなかった。彼ら/彼女らは夜、私の部屋に来て、ほとんど朝の2時か3時まで話をしていた。彼ら/彼女らはできるだけ多くのことを学びたいと願っていた。その熱意はあなたたちの想像をはるかに超えるものだろう。」

「婦女聯合会」で理論研究を担当する幹部の一人も、王政を訪ね、「新しい理論が必要だ。中国の女性の問題を解釈するのに役立つ理論なら、何でも学ぶべきだ」と言ったという。

思想家の栄枯盛衰は時代と結びついており、時代に選ばれることもあれば、時代に見捨てられることもある。「世界女性会議」の後、彼女は率先して多くの研修コースを企画し、「ジェンダー」は一つの研究分野として、次第に多くの女性研究者に受け入れられていったと王政は振り返る。彼女は李小江とセミナーで何度か顔を合わせたが、直接言い争うことはなかった。その後、フェミニズム理論は急速な発展を遂げたが、李小江はほとんどセミナーに顔を出さなくなった。

「世界女性会議」への参加を拒否した後、李小江は長い間、大きなプレッシャーを抱えていた。『婦人研究叢書』の著者の一人は、当時の李小江の困惑を次のように表現している。「海外では、李小江が中国を代表して発言していると考えられていました、国内では、彼女が問題発言の発信者だと考えられていました。そのため女性学の分野でも、他の分野と同じように、人材が一時的に欠乏する現象が起こったのです。李小江のような人が果たす役割や、彼女が象徴する時代は過ぎ去り、新しい時代がまだ始まっていなかったです。中国の女性学はそのような時期にありました」

驚いたことに、このような困難な状況の中でも、李は学者としての「歴史感覚」を発揮し、議論を記録しようとした。彼女が編集した『身臨“奇”境』(訳注:中国語には「身臨其境」という熟語があり、みずからその場に臨むという意味をさすが、李の本の題名は「奇」と「其」の同音現象を利用し、現場の怪しさ、つまりジェンダー・バイアスを強調している)という著書は2000年に出版された。

李小江は自分で記録しただけでなく、1980年代から1990年代にかけて女性学や女性運動に貢献した人たちを招き、彼ら/彼女らのライフストーリーやジェンダー意識、学問的見解についても執筆してもらった。王政など自分と立場の異なる学者たちにも執筆してもらったのである。王政によると、彼女が論文の中で、自分の立場が形成される過程について語り、李小江の考えも批判した。李小江にその原稿を送った際、「訂正をお願いします」と伝えたが、論文を読んだ李は「すばらしい文章」と評価し、一文字も修正しなかったという。

李小江は執筆を依頼した際、いくつかの要求を出した。それは真実を語ること、中身のない形式的なことを語らないこと、個人的な経験を語ること、「私たち」の代弁をしないことである。そして、彼女は自分自身にも要求を出した。それは著者の立場や視点を尊重し、オリジナルの表現を大事にし、基本的に修正しないことである。そうすることで、読者は異なる声、異なる感情、異なる文化や立場の事例を目にすることができる。「画一性を求めず、善悪を論じず、後継者がさまざまな面からいろいろな養分を吸収できるように、私はそれらの論文をすべてここに残しておきたい」と。

私はこの本を読み終えたが、実に人々に誠実さや寛容さ、そして勇気を感じさせる本であった。前述の梁軍、杜芳琴、鄭永福のほか、執筆陣には1992年に中国初の女性ホットラインを立ち上げた王行娟、1996年に貧困女子大学生のための国内初の経済援助プログラムを創設した高小賢、北京大学で中国初の女性学修士課程を設立した鄭必俊、中国初のレズビアン雑誌『空』の創刊に参加した鄔烈興などがいる。17名の著者たちは、それぞれの分野で苦労を重ね、中国の女性の社会状況を改善するために苦心してきた。私は北京で著者の一人である劉伯紅に会った。彼女は当時、「婦女聯合会」女性研究所の副所長を務めていたが、退職後の現在、中華女子大学で男女平等の講義を担当している。彼女は懐かしそうにいろいろ教えてくれた。「あの頃は情熱的な時代で、異なる分野の研究者が一緒に何かをしたいという時代だった。機会があれば一緒にプロジェクトをやったり、セミナーを開いたりしていた。たとえば、あなたはメディア、私は健康、彼女は就職……分野が違うが、チームの中でそれぞれ一定の役割分担を持っており、最終的にはみんな一つになる。そのような時代だった」

それは、Tani E. BarlowのThe Question of Women in Chinese Feminismという本を思い出させてくれる。Barlowは前世紀の中国女性運動を振り返り、各時期の中国女性思想を代表する人物として、丁玲、李小江、戴錦華を挙げ、最後に「硬直した思想との戦いは、失望と希望の両方を以て展開するだろう。未来が公正的であるという希望は一つのみだが、失望はさまざまな形で訪れる。しかし、希望があろうとなかろうと、どのフェミニスト思想家も、自分が置かれた時代が提示した前提や仮定と最大限に闘っていた」とまとめている。
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「どのような境遇の中でも、決して自分をあきらめないこと」

今年の4月に、私は陝西師範大学にある「女性文化博物館」を訪れた。多くの一般女性の人生経験や自己表現を展示した中国初の女性文化に焦点を当てた博物館で、展示品は「彼女の物語」、「江永女書」、「出産育児の文化」、「女紅(針仕事)」、「織物の歴史」という5つのテーマに分かれている。スタッフの林紛によると、館内にある1200点の展示品のうち、400点余りは李小江自身が収集したものだという。「この博物館には李(小江)さんの心血が注がれています」と。

林紛の話では、この頃、李小江に新しい展覧会に出席してほしいと電話したところ、李小江は落ち着いた口調でガンが再発したことを教えてくれた。これを聞いて林紛はその場で固まってしまい、どのように話を続ければいいかわからなくなった。しかし李小江は、「大丈夫、続けてください」と言い、林紛と展覧会の具体的なスケジュールについて相談し、学術的な視点からのアドバイスもいくつかしてくれたという。

この博物館は、李小江が表舞台を去ってから最も多くの時間を注ぎ込んだものである。1997年、彼女が鄭州でますます苦しい状況に迫られていたとき、大学院時代の同級生だった陝西師範大学学長の趙世超から声をかけられ、陝西師範大学女性学研究センターの兼任教授として、同大学に移ることになった。

 2つの刺繡枠と翟培英の夫からの手紙©張月

博物館の設立は、李小江が1990年代初頭から考えていたことだ。「その当時、女性の歴史と女性の文化を救いたいと思っていました。女性の歴史の多くが民俗文化の形で残っていたり継承されたりしているからです」。そのため彼女は河南日報の一角で民間人に女性史資料の提供を呼びかけた。ほどなくして、ある農村の男が、亡妻が持っていた刺繍用の丸い刺繍枠を2つ送ってきた。男性は手紙で「これは老妻の翟培英が娘時代から刺繍に使っていたもので、1947年に私の家に嫁いだとき嫁入り道具と一緒に持ってきて、もう50年以上の歴史があります。それを手に取るたびに、妻の笑みが目の前に浮かんできて、まるで彼女が自分のそばにいるようです」と語った。

翟培英さんは、娘として、妻として、そして、母として平凡な人生を過ごしたごく普通の女性だった。亡くなるまで社会に大きく貢献することも、歴史に影響を与えることもなかった。しかし、その刺繡枠を送ってきた男性が老妻の話をしたときに、彼の目に溢れた涙を、李小江は覚えている。「彼は妻が意義のある人生を送ったと考えています。妻の人生を象徴する刺繡枠を博物館で人々に見てもらうことで、妻の一生を覚えてもらえるだろうと考えたのです」と李小江は説明した。

また、足の不自由の女性が車椅子に乗って、李小江に自分で切った赤い紙の「金陵十二釵」(訳注:金陵十二釵は中国の古典小説『紅楼梦』に登場する十二人の女性のキャラクター)の切り絵を持ってきた。「お役に立つかどうか分かりませんが、もし使えるならここに置いてください」と言った。

「十二釵」の切り絵©張月

私は美術館でこの2つの展示品を見かけた。刺繡枠は、来館者が美術館に入って最初に目にする展示物であり、その隣には翟培英の夫からの手紙が置かれている。「金陵十二釵」の12人の女子の切り絵はそれぞれガラスの額に入れて、切り絵コーナーの一番目に飾られている。林紛によると、この美術館は徐々に世に知られてきて、切り絵の名人も自分の作品を送ってきたが、「金陵十二釵」の展示場所はずっとこの位置のままである。これは李小江がこの博物館のために定めた基本的なルールである。つまり、ここの展示品には有名人の遺作はなく、歴史書には決して名前がでることのない一般人の女性が所有していたものばかりなのだ。


展示品を集めるために、人気の少ない寂しい場所にもよく行き、外で野宿しなければならないときすらあると、同館スタッフの喬木が教えてくれた。雲南省のある村に少数民族の嫁入り道具を収集しに行ったとき、村にホテルがなく、喬木は街角で一晩寝泊まりした。また、展示品を買う経費がないので、収集の目的を説明しながら、所有者に寄付してもらえるように一生懸命説得するしかなかった。喬木自身も祖母から譲り受けた硯を博物館に寄贈した。その硯には子供を教育する女性の姿が彫られていた。その後、その硯が恐らく高価なものだと言われ、返してもらおうかと思ったが気後れして言えなかった。そして「自分の家に置いておくより、むしろ博物館でみんなに見てもらったほうがいいのでは」と考え直した。

女性研究センターの屈雅君教授は博物館の初代館長である。屈雅君はある文章の中で、当時の状況を次のように回想している。学校からの補助金がわずかだったため、李小江は兼任教授としての給料を全額女性博物館の建設や展示の準備につぎ込んでいた。お金を更に調達するために、女性研究センターでバザーを開いたこともある。ある先生は「女書」を書き、ある人は扇子を作り、李小江はコースターを作り、みんなでバザーに出した。しかし、このバザーで集まったお金は学校から「裏金」とみなされ、没収された。このような逼迫した経済状況は今でもあまり変わっていない。林紛は私に、展覧会用の印刷物を安く作るために、校外の印刷店(一枚1角=2円)に行くかわりに、ネットで費用の安い店(一枚1分=0.2円)に頼むようにしていると言った。

博物館を作るのは大変だが、気持ちの面ではむしろ楽しいと李小江は話してくれた。「私がこの仕事を始めたとき、人脈も何もなく、すべてはいわゆるゼロからの出発でした。出会った人々も素朴だし、どこに行っても、驚くことばかりで、常にわくわくしています」

展示品を収集すると同時に、李小江は口述史の調査も企画し、展示品にまつわるエピソードを取材するために元の持ち主を訪問した。それを『女性にも語ってもらう』という4冊セットの本としてまとめ、2003年に出版した。その中の一冊は戦争経験者が語ったもので、それを読んだ豆弁の読者はこう評価している。「彼女たちが取材した女性兵士や戦争被害者たちの語りは、緊急に保存する必要がある一次資料に相当する……この本は、戦争の時、生理の時、出産や育児の時などの面から女性のストーリーをより詳細に記録している。

この仕事に取り組む中で、李小江は、理論に不足と限界があること、そして形而上の理論が常に個人の生の体験を覆い隠してしまうことに徐々に気づいてきた。「まず細部をはっきりさせ、個々の記号を具体的に説明してはじめて、理論的な結論を下すことができると思っています。資料の収集は止めてはいけません。新鮮なものが常に飛び出してきて、自分の理論を修正してくれますから」

昨年、劉伯紅とオックスフォード大学のメアリー・エ教授は、江西省廬山にいる李小江に会いに行き、李小江の借家に1週間滞在した。劉伯紅は、李小江が今も執筆を続けており、尼僧たちにインタビューをしているのを見て、「研究者として彼女は休んだことがない」と感慨深げだった。

李小江は私に、人間として精神的に自立するということは、誰かと論争するのではなく、真っ正面から仕事に向き合うことだと言った。「一生懸命説明するより、まず自分でやってみることが最も重要です。自分の一生が100歩だとして、周りの雑音を気にするなら、私は10歩も進めないかもしれません」

大学内のある講座で、ある女子学生が「女性差別をなくすためにはどうしたらいいですか?」と質問した。李小江は彼女にこう答えた。「今は一生懸命勉強してください。これからどんな困難に遭遇しても、どんな苦境に立たされても落胆しないでください。私は、『おんなを読み解く』の表紙に次のような言葉を書いた。『どのような境遇の中でも、自分をあきらめないこと』」
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「壮麗な美」

今年6月、李小江は月一回の接種を大連で受けるために、庄河から大連の療養所に移り住んだ。1日3食の食事が提供されるので、彼女にとって時間の節約になる。庄河の友人は彼女が一人で大連にいることを心配して、庄河に残るように勧めたが、彼女は断った。「ここでも普段の生活が保てます。わたしにとって最も重要なことは、部屋のドアを閉めれば誰も私の生活を邪魔してこないので仕事の効率を最大化できることです」と話した。

口述史を整理する仕事だけではなく、彼女は相変わらず新しい知識にも興味を示している。彼女はさまざまな講座の情報を紹介している公式アカウントをフォローしていて、朝起きたら目を通し、気になったものをメモしておくようにしている。海外から帰ってきたばかりの若い博士の中には、自分の研究成果を紹介する人もいる。李小江は興味のあるものを選んで聞きに行く。彼女は最近、ある学者の「舞踊人類学」に関する講座を聴講した後、その学者に電話をかけて、夜9時から11時過ぎまで話し込んだ。

私は彼女と、過去に取材した歴史学者と人類学者の話をした。彼女の話から、彼女がその学者たちの学術的観点と学術的背景にかなり熟知していることがわかった。

李小江は私に、人生の中で遭遇した多くの困難な時にも、未知への好奇心が彼女を支えてくれたと言った。彼女は小さい頃からアインシュタインが好きで、何年も前にアインシュタインの旧居をわざわざ訪問した。彼女のパソコンにはアインシュタインが自分の世界観について書いた文章が今もある。アインシュタインは客観的な世界を偉大で永遠の謎と表現し、すべての宗教、人文科学、自然科学はこの謎を解くために存在していると考えていた。この謎を解く仕事をしている人々はある瞬間「魂が喜びに酔いしれるような強烈な戦慄」と「壮麗な美しさ」を手にするだろう。李小江は時々知識の中からこのような「壮麗な美しさ」を感じることができている。それが彼女を、孤独や論争、批判から守ってくれている。「これらのものが、私が生きている間に、私を励まし、私を成長させ、あちこちから来たものに立ち向かう勇気をあたえてくれたのです」

だからこそ彼女はこれまでずっと、女性の「主義」に心服することができず、フェミニズムが今ではある種の「政治的正しさ」になっていることに懸念を示している。フェミニズムに対する絶対的な信仰は短絡的で不完全なものだと考えている。「フェミニズムはひとつの視点にすぎず、全体的な視点ではないのです」と彼女は言った。

上野千鶴子との対談で、2人は階級とジェンダーの関係について話した。李小江は、「階級とジェンダーの関係をどう考えるか。社会と女性の関係をどう考えるか。これは私たちの間だけでなく、多くの欧米のフェミニストとも異なるところです。彼女たちは常に『ジェンダー』をすべての社会関係の上に置く傾向がありますが、私はそれに賛同しません。これは私たちの実際の経験とは一致しないからです。私たちの社会と私たちの生活の中で、確かに多くの問題は女性/ジェンダー問題の上層にあり、社会全体で共に受け入れ、共有しなければならない……いわゆる『ジェンダー研究』とは、ジェンダー的要素の存在(ほぼどこにでも存在する)をはっきりと認識すると同時に、それがどこにあるかをはっきりと見極めなければなりません。つまりジェンダーは重要であるが、それだけが重要なのではありません」と言った。

李小江は、もし将来自分の著書を読む人がいるとしたら、最後に「作家」や「学者」として記憶されることを望んでいる。「フェミニストとしてではなく、書き手として、学び続ける人として記憶されたいです。私はfeminismを、世界を理解するための一つの視点、一つの方法として捉えたいのです。feminismが私の全てだとは位置づけたくありません。———この自由は私に残しておいてください。(欧米のフェミニスト達に)完全には賛同しないけれども、かつて私たちが共有した歴史の痕跡を少しでも残させてください。」

今年の8月末に彼女に連絡したところ、翌日彼女から音声メッセージが届いた。体調があまり良くなく、前日はまったく声が出せなかったこと、分子標的薬が効かず、現在入院して治療を受けていることを伝えてきた。彼女の声は少しかすれていたが、それでもしっかりしており、かなり説得力のある口調で「ご心配は不要です。今すぐに人生が終わるほど深刻ではありません」と言った。

これ以上彼女を疲れさせたくなかったので、どうかお大事にしてくださいと伝えた。すると、彼女は可愛いキャラクターが「ありがとう」と言っているスタンプを送ってくれた。仕事をやめた彼女にとって思想や時代との戦いは終わったことかもしれないが、その過程で彼女は決してあきらめなかった。今、彼女は身体との戦いを始めたばかりだ。彼女が簡単に降参することはないと私は信じている。

(出典はテンセントニュース)

取材対象者の要請に応じ、林紛と喬木は仮名にした。表紙は李小江による。