最近の世の中のいろいろ見てると、ずっと真面目にコツコツ頑張ってる子より、たまにええカッコする目立つイジメっ子の方が生徒会長に選ばれる学校みたいな感じする。なぜかそういった学校では先生とかもだいたいイジメっ子のほうをエコ贔屓したりする。先生って賢い人らのはずなのでは??て思うけど、正義や人権より権威、となるとそうなっていくのか、知性の敗北なんて言葉も頭に浮かぶ。

結局、真面目にやってた子の成果は目立たず忘れられ、いじめっ子は外面良いからたいしたことしてなくてもめっちゃええことした感をアピールできる。


そんな空気のなか、人の命を軽んじても良い、自分が損しなければ差別があっても仕方ない、社会の背景なんて知らない、見たものが全て。そんな社会にどんどんなってくんだろうなと思う。正しいと思うことを丁寧に伝えたって伝わらない。社会正義を志向するつもりの立場は、今後どうしていくのがよいのだろうか。


例えばこんな状況はポストトゥルースとかフィルターバブルとか言われてるけど、結局は心地よい物語かどうか、が重視される社会なんだろうと思う。自分以外の人が受ける差別を考えることや誰かの人権を守らないといけないこと、は心地よくない。わかりやすく効率良い社会をよしとしてきた社会の成れの果てだと思う。マスコミやSNS云々はそういった土壌が具現化しただけの話。

だから、「正しいこと」がわからないあの人たちはおかしい、てことはたぶん間違っちゃいないけど、でもたぶん広くは届かない。


なんとなく、人を差別したり傷つけたりすることは人としてよくない、というあたりまえのことが、SDGsとか多様性とかの言葉が広まるとともに薄まってった気もする。差別はよくない、て言い続けることはたしかに正しいけど、まず生きるために身につけるべきこととは、自分の日常と社会はつながってるという認識じゃないだろうか。つまり、誰かが差別される、暴力が肯定される社会は、いつか自分も差別され、暴力を受けるかもしれない、または差別や暴力をはたらく人に堕ちてしまうかもしれない社会ってことでもあるという想像力を持てるような。


これら一連のことをあえてまとまりもなく書き綴ったのは、自分のなかにもある、人として大事なことから逃げる気持ち、にあらためて気づいたから、てこともありました。一歩間違えたら、私も、めんどくさいことより楽なこと、になびきそうな気がする、と。そんなことを思う、2024年の11月末でした。

分断されないフェミニズム: ほどほどに、誰かとつながり、生き延びる

著者:荒木 菜穂

青弓社( 2023/12/18 )