社会学者の岸政彦さんの本を読むと、「社会学的質的調査」の中で、語る人も聞く人も、言葉になりにくい「語り」を何とか言葉にしようと試みる中で、「ああ、うまく言葉にしてくれたわ」と思って読むことが多い。500頁に及ぶ岸政彦編著『生活史論集』(ナカニシヤ出版、2022年12月)も、そんな思いで再読した。
そしてもう一冊、最近出た岸政彦著『調査する人生』(岩波書店、2024年11月)は、前書に登場する気鋭の社会学者を含めた6人のフィールドワーカー(打越正行、齋藤直子、丸山里美、石岡丈昇、上間陽子、朴沙羅)との対談をまとめた本だ。前書で10人の聞き手たちが、10年~20年かけて行った「質的調査」の中で、聞かれる対象者たちが、生活や背景、個人の思いや感情を、ようやく語り始めていく。そこで語られる「風景」が、この対談から再び蘇ってくる思いがする。またその「風景」は調査者である聞き手にも、自らの「問い」や姿勢を照射していくものでもあるのだ。
つまりそこで描かれる「風景」は、聞かれる側の一人ひとりの人生でもあるが、同時に聞き手にも問い返される「自己と他者との関係の相互作用」の集積となっていることが、とてもよくわかる。
はるか遠い昔の学生時代、社会学で聞きかじったマルチン・ブーバー『孤独と愛――我と汝の問題』(野口啓祐訳・創文社、1958年)を読み、その中の「人は汝において我となる。すべての真実の生は出会いである。関係とは自己と他者との差異を生きること」という言葉や、ハロルド・ガーフィンケルの「エスノメソドロジー」(社会秩序のあり方を会話分析等により明らかにしていく方法)を学んだことを久々に思い返した。
岸政彦が、『生活史論集』の「はじめに」を少し長めに書いている。10人の社会学者による「生活史の語りに基づく論文」の紹介が、とってもいい。これだけで本書を読んだ気分になるくらいだ。
フィリピン・マニラの貧困世界を事例にボクシングジムに住み、スクオッター地帯(土地の所有権や利用権がないまま定住している人々や住宅)を調査して書いた石岡丈昇の「連鎖する立ち退き――マニラのスクオッター地区と強制撤去」は、「立ち退きの連鎖」について、立ち退きの「時間軸」と立ち退かざるを得ない人々の「宿命」をキーワードに描いてゆく。
「可笑しくもないのに笑うとき 大震災という不条理の際で」は金菱清が、東日本大震災の被災者の話を聞く。大津波で夫を亡くした妻と娘が、義父母や親族から村のしきたりを理由に「あんたは黙っておれ」と言われて、夫の葬式の喪主にもしてもらえないという現実。その不条理や絶望や孤独から、ようやく自らの手で少しずつ解放感をつかみ取っていく母と娘の心のプロセスが丁寧に語られてゆく。
川野英二の「『地域スティグマ』にたいする抵抗の諸形態 『釜ヶ崎』住民の生活史から」と、白波瀬達也の「日雇労働者として釜ヶ崎を生きる」は、釜ヶ崎への質的・量的調査を通して、そこに住む人々の人生を描く。
2024年12月1日、大阪市西成地区の複合施設「あいりん総合センター」に強制執行が入り、野宿者たちが追い出されたことをニュースで知る。同センターは2019年に閉鎖され、その後も敷地内に野宿者たちが暮らしていたのだ。2012年、橋下徹市長(当時)の「西成区特区構想」のもと、吉村洋文知事による「ジェントリフィケーション」(大都市の低所得者層居住地域を建物の建て替えや商業施設建設により上層生活圏へ置き換える施策)の一環なのだが、強制撤去後、行き場がなくなった野宿者たちは、一体、どこへ行ったのだろうか?
ドキュメンタリー映画「山谷 やられたらやりかえせ」(1985年)の全国上映運動にかかわった調査対象者の吉岡基さんは、「やられたらやりかえせ、だけでなく、やられる前に打って出ろ」と言う。この映画は1984年12月、天皇主義右翼・皇誠会(金町一家・西戸組)に虐殺された佐藤満夫監督の遺志を継ぎ、日雇全協・山谷争議団の山岡強一を中心につくられたが、完成直後の1986年1月、山岡強一も虐殺されている。
その全国キャラバン隊の上映会に私も1987年8月6日、広島へ行った。しかし映画を見て「ここには女が出てこない」と感じた。上映後の二次会で「なぜこの映画に女が出てこないんですか?」と聞く私に、主催者の男は「山谷は男の単身者の街なんです。東京都の方針としてひとり者の街にしている。でも、山谷の男も、景気がいい時、実入りがよくなると吉原へ行くんですよ。あなた吉原を知っていますか」と言ったのだ。ああ、ここにも女を見る、男の目があるんだと思った。またある時、「女が性を売るとしたら、男は精神を売っている。マルクス流にいえば、性を売るのも精神を売るのも軽重はないはずだ」と言った活動家の男の言葉を思い出す。それにふれて、私の著書『関係を生きる女(わたし)解放への他者論』(批評社、1988年)「Ⅴ 闘うということ 5 女と男の異なる視点 男たちの目が見るものは/糾弾のなかですれちがうもの」に、そんなエピソードを書いている。
それは男性ホームレスの「語り」と対比する形で女性ホームレスの「語り」の特徴を述べる丸山里美の、「女性の語りを聞くということ」の中で、「ジェンダーの軸が入ると調査対象者と調査者の立場が逆転することもありうる」、「男性ホームレスは仕事に対する誇りや人生の中で自慢になることを語ることが多いのに対して、女性ホームレスは自分が、いかにつらい経験をしたかを語ることが多い」という記述にもつながる。さらに丸山は、「注意深く耳を傾けなければ、聞こえてきにくい声がある。そうした声があることに無自覚なまま聞き取りをしていけば声の大きいものにかき消されてしまうことから、話し手の性別や社会的地位に注意を払わないといけない」と調査の心構えを指摘してくれる。
齋藤直子は「都市部落のコミュニティを維持しているのは誰なのか」の中で、「人口の転出転入、都市化の波の中で、なお部落は存在する」と主張し、その運動やアイデンティティが、どう維持されているかを問いかける。
1969年、「同和対策推進事業特別措置法」が施行され、33年にわたり部落改善事業が実施され、少しは改善が進んだ地区もあったというが、その後、同和対策改善事業は終了。果たして今、「部落差別」はなくなったのだろうか?
2024年12月4日、「最高裁第三小法廷は、被差別部落の地名リストを掲載した書籍の出版やウェブサイト掲載はプライバシーの侵害として、川崎市の出版社「示現社」にサイトの該当部分の削除と出版禁止、原告に損害賠償を命じた」というニュースからも、今なお「部落差別」は見えにくく、現存していることがわかる。そして「同対法」失効後、「同和教育」が義務教育で、きちんと教えられてきたのだろうか。若い人たちの「部落差別」への認識が薄れてきているのではないかと、少し気がかりだ。
齋藤は「部落の中と外との境界線は、そこに生まれ育つ人びと、転出しUターンする人びと、貧困地域から転入してくる人びとなど、部落を行き交う人びとの個人の人生の中に部落は存在する」。そして部落問題の領域では「出自を明らかにすることを『カミングアウト』とは言わず、『うちあけ』という言葉を使う」と言い、「なんか適切な言葉がないなと思う事象が、まだまだある」と語る。
上間陽子は、沖縄の風俗業界で仕事をする女性たちの調査をもとに『裸足で逃げる』(太田出版)や『海をあげる』(筑摩書房)などの著書があるが、今は調査から一歩踏み出し、特定妊婦の出産・子育て応援シェルター「おにわ」の支援活動にも力を入れている。対談の中で上間は、「その人を知りたい。その人の理屈が知りたい」という思いから、「他者理解」のあり方の一つとして必然的に「支援へと結びついていった」と語り、私も「うん、そう。そうかもね」と頷きながら読んでゆく。
『生活史論集』には他にも、川端浩平の「変わらないこと/変わること ある朝鮮籍男性の「帰化」と「ハーフ」をめぐる語りから」、岸政彦の「芋と鉄くず 歴史のなかの「沖縄的共同性」」、朴沙羅の「身世打令を聞く 京都市・九条オモニ学校における生活史の聞き取り」、前田拓也の「できるようになる」ための場と拠りどころ 身体障害者の介助現場と介助者の語り」などが記載されている。
インタビューに会話の録音は不可欠だ。タイミングを見計らい、相手の了解を得て録音する。私も40年ほどテープ起こしの仕事をしていて、会議録や講演録、インタビューやヒアリングなど、さまざまな領域のテープ起こしを、口コミで、あちこちから頼まれてやってきた。それも富士通の「親指シフト」のキーボードで、1時間のデータなら1時間半ほどで起こせる。聞き取りにくい録音は何度か繰り返し聞いて何とかまとめる。だから文筆家や記者の間で「親指友の会」があるくらいだ。こんな裏方の仕事が私には似合っているかも、と思うが、今やAIやデジタルのアプリが代替して、国会の速記者もいなくなったとか。「もう時代遅れやし、そろそろ仕事を辞めようかな」と言うと、娘から「辞めたらボケるからアカン」と言われているけど。
インタビュー起こしは、語る人の声や思い、感情を受け止めつつ、言葉を正確に、その時の空気や雰囲気を記録するように心がけている。それは「質的調査」を支える大事なバックヤードの一つだと思うから。
岸政彦は「はしがき」の最後に、「私たちが聞き取りに出かけていった先に存在しているのは、異なる歴史をもった、異なる状況にあり、異なる信念をもつ、同じ人びとなのである。絶対に理解することができないような戦争、災害、貧困、差別、暴力のもとで生きる人びとが、それでも私たちと同じ人間であるということを理解することはできる。ただ想像することしかできないとしても、それでも私たちは、言葉を語り、それを聞くことをやめることはないだろう」と結ぶ。
人と人との関係とは何か。そして聞き手と聞かれる者との関係とは?
岸政彦は『生活史論集』で「人生の語り」を聞き、『調査する人生』で「人生をかけて、相手の人生」を聞く。その概念が、私の前著『関係を生きる女(わたし)』の「エピローグ・観念から関係へ」で書いた、私が思う「関係論」、即ち「私から他者へ、そして我々への道へという、あるかなきかの関係は、かすかに一瞬の間に成立し、またすぐに消えてゆく夢のまた夢かもしれないが、それを追いかけてみたい、一人の女として。/私を解き放ち、他者をも解き放していく。そんな互いの魂にふれあうような交信を夢みて、他者との関係を豊かにつむいで生きていきたいと、今の私は、思っている」のくだりと、ほんの少しだけ重ねて読むことができたかもしれないと思うと、なんか、うれしくなった。
そして言葉になりにくい「語り」を、うまく言葉にしてくださった著者のみなさんへの感謝を込めて、分厚い2冊の本を、静かに閉じた。