ノンフィクションライター井上理津子さんがコロナ禍の2020年1月から22年3月まで「観光地でない東京」を歩いた記録が1冊の本にまとまった。『ガイドブックにない もうひとつの東京を歩く 東京社会科散歩』(解放出版社、本体価格2,200円)だ。初出は『月刊部落解放』2020年5月号から22年5月号まで。連載時のタイトルは「東京フィールドワーク」だ。
写真やイラストマップも入った256ページの比較的薄い部類に入る本だが、読後感はズシリと重い。それはきっと、ここに取り上げられている東京周縁の14の土地の分厚い歴史を垣間見たせいだろう。1章ごとに深掘りされた土地の記憶それぞれに、濃密な物語を感じさせる。
取り上げられている場所は、東向島、日本橋からスカイツリーへ、築地、吉原、荒川区尾久(JRの駅名は「おく」だが、地名は「おぐ」)、江東区枝川、山谷、池袋西口、新大久保、千鳥ヶ淵・本郷・早稲田、品川、羽田、高島平、横田基地。地名を見ただけで「こんな話かな?」と予測がつく人もあるかもしれないが、記されている物語はきっと読む人の予想を凌駕する。例えば、尾久は1942(昭和17)年4月18日に東京で初めて空襲を受けた町という。当時、厳しい箝口令が敷かれた歴史を発掘し、のちに伝えようと奮闘した人たちや空襲で友を亡くした老人の語りは、やはり重い。
井上さんは奈良県出身で長く関西で活躍するフリーライターだった。私とは40年来の付き合いがあり、尊敬する友人の一人でもある。タウン誌記者出身で、フリーになってからは日本各地の旅の紀行文やグルメ記事などを含め、注文に応じて取材して原稿を書きながら、自分でテーマを見つけてはコツコツと本を著していた。
あたりまえに仕事をし、普通に生きている84歳から39歳まで(取材時)の女たち92人の仕事現場を訪ねた『女・仕事』(共著=1985年、長征社)を皮切りに、『産婆さん、50年やりました: 前田たまゑ物語』(1996年、筑摩書房/のちに『遊廓の産院から』に改題、河出文庫)、『大阪 下町酒場列伝』(2004年、ちくま文庫)、団田芳子さんと共著の『大阪名物』(2006年、創元社/のちに新潮文庫)など、こうやって記していても守備範囲の広さにあらためて驚く。
全国的に名前を知られるようになったのは、2011年に筑摩書房から上梓した『さいごの色街 飛田』(現在は新潮文庫)からかもしれない。取材には10年以上かけていたが、あまりに難航するので途中で断念しかかったが、巻き直した。私が読ませてもらった第1稿は完成稿の倍量近かったが、泣く泣く削ってまとめ上げた労作だ。
インターネットの普及で、誰もが気軽に情報を発信できる便利な世の中になるにつれ、フリーのライター稼業は厳しさを増すばかり。「関西で売っている私を食べさせない大阪ってどうよ!」と啖呵を切って、15年ほど前に拠点を東京に移した。少し前に相次いで両親を見送ったことも大きかっただろうと思う。
その後も『葬送の仕事師たち』(2015年、新潮社/現在は新潮文庫)、『親を送る』(2015年、集英社インターナショナル/現在は集英社文庫)、『絶滅危惧個人商店』(2020年、筑摩書房)、『師弟百景』(2023年、辰巳出版)など、旺盛な好奇心を武器に、現場に足を運ぶ精力的な取材と確かな筆力で、読み応えのある本を多数、世に送り出してきた。
取材して原稿を書く。似たような編集の仕事でも、新聞社の関連会社で長年働いてきた私が手掛けてきたクライアントありきの広告が絡む仕事と、井上さんの仕事は全く違う。私の仕事は主に、クライアントや取材先が求める“訴求したいこと”を伝わる文章でまとめることだ。黒子に徹し、聞き手・書き手としての自分は文章には出さないのが基本の流儀だし、完成するまでにはクライアントはじめ関係者に原稿をそのまま見せてチェックしてもらう“ゲラ拝”という作業が付いて回る。
井上さんの仕事は、本人が前面に出てくる。彼女が聞き手で書き手だからこそ、紡がれた言葉が生き生きと伝わってくる。
土地の記憶の中には、負の歴史といわれるものも含まれる。それを書き記すことは、今もそこに住む人たちにとって歓迎されることではない。読んでいて気になったので、井上さんに尋ねてみた。
「この本を出すにあたって、初出も含めて取材先に原稿を丸ごと送っての確認作業はしていませんよね?(というか、しない主義?) というのは、広告の仕事をしてきた私からすると、取材先確認をすると「削ってほしい」と言われる個所が含まれていると思うんだけど」
返事はこうだった。
「先方確認は連載のときにしたのは「話した時系列が自信ないので見せて」と言われた1人だけ。書籍化にあたっては 雑誌掲載時に事実誤認記載があればご指摘くださいと、3人ほどに出した。原稿を事前に見せる・見せないは悩ましいけれど、広告とは違うから基本は見せないのが当然だと思ってる。たまたまなのかどうなのか、担当編集者の方針と一致していることが多い。最近はノンフィクション作家を名乗っていても、全部見せていますよという人が増えてきた。媒体も。リスク回避しておかなきゃ今どきヤバいからだと思うけど、ほんとに難しい問題だと思う」
自分の責任で、書いていると、きっぱりと潔い。
私は井上さんと超スローペースだが歩き遍路をしている。その歩きの途中で、締め切り間際の原稿確認の電話がかかってきたことがある。書いていて井上さんが引っ掛かった個所を確認しようとした電話への折り返し電話だった。取材先との会話で、どのような言葉が適切なのか、丁寧に探る姿を目の当たりにした。
一方で、知人に取材した原稿を「本にする時には事前に見せて」と言われたのに断って上梓し、壊れてしまった人間関係があることも知っている。長い手紙を書いて思いを伝えても、修復には至らなかった関係もあった。このことについて多くは語らないが、その状態を甘受する姿勢には、ノンフィクションライター井上理津子の矜持がある。
同じテーマでも、誰がどのような視点で書くかによって表現は変わる。私の目にはちょっとレトロな街並みとしか映らない下町の風景の中に、井上さんは「おねえさんがいたっぽい」痕跡を見つけることができる。そんなまなざしから発せられる問いが、その街に暮らす人の記憶の底から、人々が生きていた証を拾い上げるのだろう。
そう考えた時、私は11月6日に行われたWANの書評セッション『女の子たち風船爆弾をつくる』(小林エリカ著、文芸春秋)で、上野千鶴子さんが言った「歴史は何度でも上書きされる」という言葉を思い出した。視点が変われば、歴史は違って見えてくる。
井上さんが歩いて・聞いて・掘り起こしたガイドブックに載らない東京の土地の物語。その多くは「ここでそんなことがあったの? 知らなかった」と受け止められるかもしれない。しかし、その土地が重ねてきた分厚い時の堆積の中に埋もれている人々の生活に思いを馳せることは、どれも確かに知られざる首都の歴史を知ることなのだ。(大田季子)