エッセイ

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八ケ岳の空高く逝った人、和子さん (上) 河野貴代美

2012.12.09 Sun

本エッセイは、出版社の許可を得、河野貴代美さんのご厚意で、B-WANの記事として再録させていただいております。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.まず幻になってしまった第12章から始めさせてください。これは、竹村和子さんの2004年11月、十文字学園女子大学でおこなわれた「日本イギリス児童文学会」での講演をまとめたものであり、「血わき肉おどる冒険談に読みふける少女―トムボーイの陥穽」と題されています。本書のための原稿量は充分にあるからこれを載せても載せなくってもよい、と言っておりましたが、講演用の原稿は三分の二程度で終わっており、私や友人が病室でチェックを手伝いましたが、それも最初の数ページのみでした。当初本書に入れるつもりがあったのならば、きっと最後まで校閲できると期待していたのでしょう。他の章が、いってみれば気のぬけない、いささか緊張感をともなった論考だとすれば、これは、子ども時代の児童書の読書体験から始まり、本のなかにあったおいしそうな食べ物の記憶(常日頃、いつ食べたなになにが忘れられないと古い記憶をよく覚えていて話すほどの食道楽、料理上手でした)とか、『おもちゃ屋のクリック』という本はわけのわからない話(あとで調べわかったらしい)だとか、めずらしく時々に笑いを誘う内容になっています。

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子ども時代に読んだ本は、『ロビンソン・クルーソー』、『海底二万マイル』、『宝島』、『ソロモン王の洞窟』、『ほら男爵の冒険』といったようなもののようです。なかでも繰り返し読んでいたのは『クオレ』で、「これもまたいまから考えると、きわめて国粋主義的な、ホモソーシャルな(ということはミソジニーを内面化した)少年を作り上げる物語で、わたしは、これらを翻訳で読んでいる戦後の日本の少女だったわけですが、ナショナリズムとインペリアリズムとセクシズムを、心の糧にして子ども時代を生きていたことになります。というのも、みなさんとおそらく同じように、物語こそが、わたしの生きるエネルギーのような子ども時代を過ごしたからです」(「血わき肉おどる冒険談に読みふける少女」から)と語り、自分が、いまにいたってポストコロニアル研究をやっているのは、子ども時代の読書の贖罪ではないか、と笑わせていました。

このように竹村さんの読書体験は、多くが「血わき肉おどる冒険談」であり、なぜ女の子が冒険物語に耽溺しつつ性自認をしていくのかが、精神分析の「投射」と「取り込み」という概念を、美しく作られたPPTを使って説明しています。「そのようなときに、彼女は本の世界ではなく、現実世界のなかで自己を適応させていくためには、さきほど言いましたように、自分の男性的(といわれるもの)を、外の男に投射し(本当は、男の性を持つものがかならずしも男性性を有しているわけではないのですが)、外界の女性性を自分の中に引き入れて、それを自らの女性性と詐称していかなければなりません。しかし男のヒーローに自己同一化する少女は、読書の世界では、男性性を「取り入れ」、女性性を「投射」する。つまり逆のことをしなければならないわけです。だからこそ、現実世界の女性蔑視に敏感な女の子ほど、ひたすらに男のヒーローの物語を読みふけり、物語の外には出ようとしない。物語の外の世界は、その女の子にとって、ろくな事がないからです。物語の中では、物語であるがゆえに、少女は、男のヒーローに、読書のあいだ、自由に自己同一することができます。彼女は、自分でなんでも考えて行動することが出来る男になるのです」(引用は同)。

私もこのような体験に非常に共鳴できるものがあるのですが、女の子にとって、お仕着せの女性ジェンダーを即自的にも、脱自的にも生きられない自己形成の困難な状況が、この原稿では読み解かれています。ただ竹村さんの結論は残念ながら不明のまま残されました。

・本エッセイの続き (下)は、1週間後、12月16日(日曜)にアップされます。








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

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