エッセイ

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八ケ岳の空高く逝った人、和子さん (下) 河野貴代美

2012.12.16 Sun

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.竹村さんは、聞くところによれば、中・高校時代非常に数学の成績がよく、全国テストなどでもトップクラスだったそうで、高等専門学校で機械関係の勉強をしてもいいと考えていたとのこと。それがなぜ文学に方向転換したのか、理数科と文科を分ける考え自体が古いのかもしれませんが、竹村さんは何でもよくできた、と言ったほうがよいのかもしれません。好奇心が旺盛で、興味を惹かれればすぐに「どれどれ」と首を突っ込みたいタイプといっていいでしょうか。映画鑑賞、音楽コンサート、写真・絵画展、海外旅行にと、時間を惜しんで出かけました。昨今の海外旅行はほとんど、文学(者)を巡る旅だったようです。

昨年三月中旬、緊急手術ののち、主治医から治療法の確立していない悪性腫瘍の末期だ、と告げられました。竹村さんはこれを冷静に聞いていました。それ以降は医学関係の万巻の書を読破し、あらゆる治療法を試みました。病院も都内二ヶ所、大阪二ヶ所、在宅医療、長野と移り、その努力は、ひとえに良くなりたいという一途な思いに支えられていたと思います。

それにしても三月末、病のただならざることを告げられ、こころの奥底で、自らの最後を準備し、なおかつ一方ではちょっとした検査結果の朗報に希望をつないできました。最後まで決して諦めようとはしませんでした。決して諦めない、、、。こう言うのは何と簡単なことでしょう。断念から目をそらさないまま、希望を捨てないというのはまるで綱渡りのようにも思えます。最後になった長野の病院(緩和ケア病棟)では、病気のまわりに薄い膜のようなものを張って、ひっそりとそのなかに一人で入り込み、どうすればできるだけ楽に過ごせるかのみを考えていたように見えました。

そして八ヶ岳麓の目もくらむような錦秋が、静かに忍び寄った冬景色にすっかり変わってしまったことを知らないまま、一二月一三日、大好きだった山麓の病院で、彼女はあと一ヵ月半で五八歳になる人生の幕を静かに閉じたのでした。本書を目にしないで。祈りの中に、、、。

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最後になりましたが、竹村さんに代わって謝辞を述べさせてください。竹村さんのいない今、本書は字義通り、多くの方々のご協力によって出来上がっています。表紙の作品は、栃木県立美術館から送られてきた「関谷富貴展」カタログの絵の一つを使わせていただきました。最初は素人画家である私に表紙の依頼があったのですが、関谷さんの絵を見て、すぐに気持ちが変わったようです。もちろん私に異存はありません。この間の労をとってくださった県立美術館の学芸課長小勝禮子さんと研究社の高橋麻古さん、そしてもちろん使用を快諾してくださった関谷富貴さんのご遺族にこころからのお礼を申しあげます。デザインをしていただいた柳川貴代さんにも謝意を。長い間、竹村さんのアシスタントとして彼女を全面的に支えてきた花岡ナホミさん、花岡さんのご協力がなければ本書は日の目をみなかったといっても過言ではありません。ありがとうございました。病前からあった本書出版の予定にもかかわらず、次々に入ってくる新しい仕事に忙殺される竹村さんを、病前・中、没後をも辛抱強くお待ちくださり、励ましてくださった研究社の津田正さんには感謝の言葉もありません。

とは言うものの、感謝の言葉ほど言葉がその真意を充分に伝えないものはないのかもしれません。私がこのように書いている行間から、あの微笑をたたえた顔をのぞかせて、私の謝意に唱和している竹村和子さんの声も、どうかお聞き取りくださいますように。

なお、本書出版には直接関わりがないのですが、病中ずっと竹村さんを支えつづけてくれた「チームK(和子)」)のみなさんにも謝意を捧げたい。今はこれについて詳しくふれられませんが、チームKの皆さんがいてこその、竹村さんの闘病でした。

本書の校閲は私と花岡ナホミさんでやりましたが、おそらく竹村さんの満足のいくような仕上がりになっていないことが心残りです。11章の注と引用・参考文献はもともとつけられておらず、引用注は後からつけられました。いたらなさをおわびいたします。

二○一二年四月

河野 貴代美








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

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