2013.07.07 Sun
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ジェンダー論に取り組むとき、女と男という二元的ジェンダー構造に支えられた社会システムの中を生きる「私」を意識せずに語ることはできない。
ジェンダー論を、社会学の立場から、分かりやすく説明することを目的としている本書では、「近代社会をとりあえず、家族、市場、教育、国家、という4つのシステムからなるものとして考え、それぞれのシステムにおいてジェンダーがどのように作られているのか、そしてお互いのシステムがどのように連関しているのかについて」明らかにしようと試みられている。ジェンダー論の入門にも、理論を概観するにもおススメである。
たとえば第1章の「性別をとらえなおす」では、ジュディス・バトラーやセジウッィクらのジェンダー理論が噛み砕いて説明され、第2章では近代家族が俎上に載せられ、第3章では無償労働とともに、近年、活発に議論されているケアワークにも焦点が当てられている。教育をテーマとした第4章では2000年代に始まった「ジェンダー・フリー・バッシング」の本質は、「ジェンダー」や「フェミニズム思想」あるいは「男女平等」概念そのものへの批判であったと指摘されている。そして細かく分かれた各unitにはそれぞれ読書案内が付けられ、読者がさらに思考を深めるための工夫もなされている。
ところで第6章の「国家とジェンダー」のなかの「戦争と性暴力」を扱ったunitでは、著者の「私」が不意に登場する。第二次世界大戦中の日本軍の「従軍慰安婦」について語るとき、著者は、「私は、女であることと日本人であることは切り離せない」と、みずからの立場を明らかにせずにはいられない。こんなときに読み手である「わたし」は、フェミニズムを実感する。1980年代にフェミニズムと出会ったわたしの場合、実はジェンダー論というよりも、やはり拠りどころはフェミニズムという思いがある。だから本書の最終章の最終unitで、フェミニズムが拓く可能性を扱っている(「フェミニズムがめざすもの」)のもうれしい。
ただ本書では「家族とジェンダー」について批判的に論じられていても、どことなくもっとも親密な関係はセックスをするカップルとイメージされているような印象を受け、その点には違和感を覚えた。とはいえ、わたしの感じた違和感を含め、「はじめに」もあるように、それは「ジェンダー論に〈正論〉はない」ということを示すものなのだろう。(lita)