2013.07.27 Sat
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.保育所で亡くなるこどもがいる。それは安全管理の不足による「事故」なのだろうと思っていた。プールでの溺死、白玉だんごをのどにつまらせる、うつぶせ寝…保育士の手が足りないとか、こどもの動作にきちんと目を配る余裕が確保されていない(おやつの時間に連絡帳を書くしかなかった、とか)というような、事故を誘発する環境はもちろんあったにせよ、「事故とその背景」『安全管理に対する意識の不足」という範疇におさまるものなのだと思っていた。
しかしこの本を読んで、あまりにも想定と違う事態にただただ驚いた。保育士とこども、保育士と保護者、保育士同志、こどもどうし、保護者同士。すべての関係の中の、惰性(やりすごし)、無関心、不信感、不和…そうした非常に「心情的」にも見えることがらこそが、本書で取り上げられた上尾保育所事件、つまりはひとりのこどもの死を、生み出したものだった。保育の現場での危険は、危ない遊具や、遊ぶところを見張る人員のなさといった物理的な不足よりも何よりも、こうした心情的な部分から生まれるのだということを、ここまで肌で感じる契機はあまりないだろう。そしてそれは確かに、こどもがちょっといつもより乱暴なことをするとき、他の子に対して高圧的にふるまったり、いじわるをするようなとき、たいていその日の何かしらの心の動きがあったりする…ということを、今わたし自身こどもやその友達を見ていて感じていることでもある。危険は「安全管理」の不足から起きるなどと、なぜわたしは信じていられたのだろうと今では自分を恥じる。
筆者も問うているようにそれは「上尾保育所だけの問題なのか」。もちろんそうではない。待機児童問題が騒がれる今、多少環境が劣っても、とにかく保育園がないよりはいいでしょう、という風潮も感じられる。保育園が増えても基準を満たしていないのは不安だと言ったら「わがまま」とすら言われそうだ。そんな風潮はおかしいと、はっきりと言いたい。荷物をトランクルームに入れるように、場所さえあれば大丈夫というものではない。こどもは簡単に死ぬ、おとなの想像もしないようなことで、想像もしないような場所で。そのことを、そしてそれを生み出すのはひととひとの関係なのだということを、社会に刻みたい。(小林あんぬ)
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