2013.08.22 Thu
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.映画の「スタンド・バイ・ミー」のイメージは川だ。流れていて、はかなく、澄んでいる。少年たちが死体を探しに行く旅にふさわしい、非日常性のシンボル。
それに対して、原作のイメージはどぶ川だ。鼠の死骸や牛の糞、生活排水や工場の油によって立ち上る腐敗臭。悪臭の源は、産業も娯楽もない中部アメリカの田舎町の淀んだ閉塞感だ。
少年達の親は低所得者で、ベトナム帰還兵、失業、貧困、麻薬・アルコール嗜癖など、近代アメリカの抱える病魔にむしばまれている。原作では、少年達がすでに消費社会・男性優位・暴力の論理を内面化させつつあり、ひと夏の旅が終わった後、その社会装置の中に否応なしに組み込まれていく絶望が克明に描かれている。
女性の少女期から成熟期への移行とは、性的客体となること、結婚・出産を通して社会の再生産に関与することを(半ば強制的に)求められることである。男の側から言いかえると、常に性的主体であり、女性を贈与物として位置づけるために、身体・精神的な強靭さを他者に対して誇示し続けることでもある。
少年達が憧れるのは、ハリウッド映画のヒーローや軍隊のタフガイである。旅の間、彼らは決して弱音をはかない。”女々しさ”は嘲笑される。身体は鋼鉄の鎧であり、仲間に対する関わりも、強がりと罵り、見て見ぬふりが原則である。
しかし、彼らは幼い。旅の困難に出会った時、現実の肉体・感情的脆弱さに直面せざるを得ない。そのとき少年たちは、一方的に押し付けられていた社会の論理、非人間的な世界の軋みを自覚する。
彼らが探しに行くのが死体であることは偶然ではない。それは少年たちの失われた身体性のメタファーである。彼らは、男性化・社会化される過程で、他者との感情の共有、いたわりや共存という生の喜びから隔てられていく。肉体を道具化し、自己の身体を疎外し続ける。
実存的な痛みの前で、少年たちは咆哮するしかない。自分たちを浸している違和感を言語化する術をいまだ持たないからだ。彼らが旅を終え自己の身体、”死体”を取り戻した後も、他者の暴力によって報復を受け、成人になる過程で再び彼らは彼らを失う。
この作品の救いは、生き延びる手段として、知性と物語の可能性が描かれていることだ。
物語の語り手である少年、ゴードンが披露す自作小説は、デフォルメとナンセンスに満ち、現実を異化する役割をはっきりと示している。
キングが、ゴードンを通して私たちにこの小説を提供している構造も、苛烈な社会の中で物語ることの必然性と、物語を共有することの意義を私たちに見せてくれているように思う。
どぶ川のきつい香りが鼻をかすめるとき、少年たちが身体性を引き受けた瞬間の美しさが、より切なさと輝きを放って私たちの心に迫ってくる。(karuta)
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