エッセイ

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友情をクィアする キース・ヴィンセント ①

2013.08.23 Fri

「友情をクィアする――グローバル・コンテクストにおける竹村和子のフェミニズムとクィア理論」は、キース・ヴィンセント(ボストン大学)さんの

2013年4月20日、エモリー大学『セックス・ジェンダー・社会――日本のフェミニズム再考』での講話を翻訳したものです。以下、長文ですので、3回に分けてお届けします。また、英文原文については、こちらからどうぞ。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.竹村和子さんは、1990年代から2011年に57歳で亡くなるまで、日本のフェミニストとクィア理論が交差するところの中心的な存在でした。彼女は英米文学のクィア・フェミニスト学者として、また、ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァク、トリン・T・ミンハ、スラヴォイ・ジジュクの仕事の翻訳で著名でした。また、彼女と私がともに、日本のアカデミズムとアクティヴィズムにおけるジェンダーとセクシュアリティの問題について熱心に考えるようになった1990年代中ごろ以来の古い友人でもありました。和子さんと最後に話したのは2010年3月で、そのとき、私はパートナーのアンソニーと、東京の彼女の家の近くで夕食をともにしました。彼女にボストンを訪れてもらい、ケープ・コッドのプロヴィンスタウンで一緒に過ごすことを話し合いましたが、残念ながら彼女の病気のためにキャンセルせねばなりませんでした。私は後になって、彼女がそのころどれほど病んでいたかということとともに、彼女には「チームK」という病の末期を支える女友達と同僚からなる勇敢なチームがいたことを知りました。

私がこのカンファレンスにこの論文を提出して受理されたとき、竹村さんの仕事をじっくり腰を据えて読むことができる機会となるだろうと分かっていたので、非常にうれしく思いました。私はもうだいぶ長く(20年近くも!)和子さんを知っていましたし、彼女のバトラーなどの翻訳の気品と正確さに驚嘆していたのですが、実際のところ、彼女の仕事をあまり読んだことがありませんでした。その仕事は、ハリウッド映画はもとより、ヘンリー・ジェイムス、ヴァージニア・ウルフ、ルイーザ・メイ・オルコット、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナーを含む19世紀および20世紀の英米作家に焦点を当てたものでした。彼女が私の国の研究に時間を割き、私が彼女の国の研究に時間を割いていることについて私たちはよく冗談を言い合いました。しかし、どうもこの研究領域の違いはほとんど問題ではなかったように思います。というのも、私たちはフェミニズムとクィア理論への関心を分かち合い、コミットしていたからです。そして今でも、存命中に彼女の仕事をあまり読まなかったことを悔やんでいる自分を感じます。また、なぜそうしなかったのか、問いただしている自分がいます。私はジェンダーとセクシュアリティに関連した英米文学研究を読むことにしているのに、それを読まない正当な理由などなかったのです。たぶん、自分がわざわざ日本語で何か読むのであれば、それは日本についてのことであるのが当然だと思っていたのだと思います。

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実際、このことを認めるのはとても恥ずかしいのですが、しかし、残念ながらまさにこうした打算こそ、和子さんの仕事を学ぶ機会を遠のかせていたものでした。日本文学について英語で書いている者として、私はもっとそのことをよく分かっているべきでした。もしこの考え方が逆向きに適用されたら、日本の人が私の仕事に関心を持ってくれるとは微塵にも期待できなくなってしまうのだと気づくべきだったのです。自分で直接原典にあたれるのに、なぜこのアメリカ人の白人が日本文学について語ることを読む必要があるのかと。そうしたことに関するこの種の態度は、日本においてもアメリカにおいても珍しいものではなく、私がつねづね狭量で本質主義的だとしきりに非難していることです。にもかかわらず、和子さんの仕事に関しては、明らかに私は自分が説いていたことを実践していませんでした。

だから私は、先ほど申しました通り、このカンファレンスで話すことを受理していただき、また、和子さんの仕事を振り返り、読む機会を与えてくださったことに、二重に感謝しております。その作業をするなかで、和子さんの目を通して、アメリカにおけるフェミニズムとクィア理論の歴史の様々な側面とあらためて邂逅し、そして多くの場合それらを初めて知れたことは、本当にスリリングなことでした。たとえば、彼女の2012年に出された『文学力の挑戦』のおかげで、私はルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』がクィアなテクストとして読めることを今では知っています。また、ケイト・ミレットの1970年の古典作品でフェミニスト文学批評の『性の政治学』が、ジャン・ジュネのジェンダー体制に対する姿勢を好意的に書いている章で終わっていることや、D・H・ロレンスのホモフォビアとミソジニーについてのミレットの分析が、15年後の『男同士の間』のイヴ・コゾフスキー・セジウィックの仕事を先取りしていることも学びました。[i]アメリカの反‐知性主義に関する素晴らしい章では、竹村さんは、19世紀の「ノウ・ナッシング党」に立ち戻りながらリチャード・ホフスタッターの古典作品を援用し、ジョンズ・ホプキンス大学発行元の学術誌『哲学と歴史』が1998年にジュディス・バトラーに与えた「悪文大賞」の授与の状況を説明しています。和子さんがその章で指摘しているように、バトラーのよりずっと読みにくい文章を書くポスト構造主義理論家たちがたくさんいましたし、マスメディアの耳目を引かなかった選考の受賞者がほかにたくさんいました。しかし、これら二つのことが示しているのは、問題になっていたのがバトラーの文章の伝説的な難解さというより、むしろ古き良きアメリカの反‐知性主義に根深く命脈を保ち、ジェンダーやセックスの規範を堅牢に守っている『常識』に、それが突きつけた挑戦に対してだったということです。

もちろん、和子さん自身にとって、バトラーの文章は読みにくいものではなく、日本におけるミソジニストと異性愛規範主義の暴力と不正義に抵抗する方法として、彼女が形にしようとしていた思想を分節化してくれたスリリングで明確な表現でした。[ii] 彼女が翻訳のあとがきに書いているように、『ジェンダー・トラブル』は「わたしたちの現実に、直接にためらいなく、わたしたちの隠れた現実」(強調筆者)を語ってくれるものでした。[iii] 彼女は日本の読者に、バトラーの言葉の難解さに萎えることなく、「ゆっくり、じっくり」その仕事を読み、味わうよう促しました。

ジュディス・バトラーについてのこうした話はどれも、皆さんにこの話が日本のフェミニズムと関係するのだろうかと思わせているかもしれません。何をおいても、「日本のフェミニズム」がこのカンファレンスのテーマとなっていますし。私はこうお答えするかもしれません。「それでも私は日本のフェミニズムについて語っているのです!竹村さんがジュディス・バトラーを翻訳し、英米文学を研究していたというだけで、彼女が「日本人フェミニスト」であることを減じるものではないのです。その論理で行くと、ここにいるほとんどの方は「アメリカ人フェミニスト」とはなれないでしょうし、私は日本文学の分野で働き続ける限り、自分のことを「アメリカ人クィア・フェミニスト」と見なせなくなってしまいます。」

そのようにお答えできると思います。しかし、あえていたしません。そのかわりに、この問題をとても真剣に受け取ってみたいと思います。というのも、竹村さんがそうしていたことを知っているからです。私がお話ししているその問題とは、「英米文学を研究している日本人フェミニストであることは何を意味しているのか」ということです。また、この問題をとりまき、この部屋にいる私たち全員に深く関係していると思われる他の、類似した問題群もあります。自分「自身」以外の他の文化に焦点を当ててクィアやフェミニストの研究をするということはどんな意味があるのでしょうか。アメリカで日本のフェミニズムを研究する私たちの能力や、日本でアメリカのフェミニズムを研究する竹村さんの能力を措定してしまう制度のポリティクスとはどんなものなのでしょうか。この質問に答えるにあたり、私がどのように和子さんにお会いしたのかを少しお話ししてから、彼女の論文の一つで、この問題を真正面から論じている、先ほど言及した2012年の著書の最終章を詳しく読んでいきたいと思います。

1990年代中ごろ、私は東京で、たしか博士論文のための調査をしていましたが、実際には、ほとんどの時間を「アカー:動くゲイとレズビアンの会」という団体と活動することに割いていました。アカーは日本のセクシュアリティ・マイノリティーの権利と認知をめぐる闘争の数々の戦線に関わっていました。彼らは、ゲイの権利に関わる日本で初めての訴訟の原告で、同性愛者をユースホステルから締め出したかどで東京都を訴えていました。コミュニティーレベルでも厚生省とも、HIVの予防や治療の問題に取り組んでいました。アカーは国際ゲイ・レズビアン協会のアジア代表でした。ゲイやレズビアンに匿名の電話相談や、クィア・フレンドリーな英会話レッスンまで提供していました。

しかし、アカーの仕事はアクティヴィズムに留まるものではありませんでした。これは1990年代、つまり、アメリカからクィア理論が来た初期の、激動の時期のもので、アカーの私の友人は、日本の異性愛規範的な社会構造についての戦略を練り、よりよく理解し、理論化できるもっと多くの理論ツールを求めていました。その目的のために、私たちは数年間にわたって「アイデンティティ研究会」、そのうち親しみを込めて「ID研」という略称で呼ばれるようになる月例セミナーを開き、モニック・ウィティッグ、リュス・イリガライ、ゲイル・ルービン、ジュディス・バトラー、イヴ・セジウィック、レオ・ベルサーニ、D・A・ミラー、リー・エドルマンなどを含む、フェミニズムおよび台頭しつつあったクィア理論の研究書を読んだり、議論したりしました。こうした研究の多くは、当時まだ翻訳されていないままで、英語のテクストを読めるアカーのメンバーの助けを借りながら、その論点を日本語で伝えることが私の仕事となることが多くありました。ご推察の通り、これは簡単にできることではなく、私たちは学者からのサポートや適切な日本語への翻訳を心から求めていました。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.このような状況のなかで、私は和子さんに初めて出会いました。それは1995年か1996年だったと思います。最初にお会いした正確な機会を思い出せないのですが、筑波大学に近い彼女のアパートに出かけたのは、はっきり覚えています。彼女はそこで英米文学を教えていました。私は河口和也や新美広たちを含むアカーの何人かのメンバーと、全員ゲイ男性ですが、一緒に行き、床の上でピザを食べ、煙草を吸いまくり、日本で、日本語で、どのようにクィア理論に重要な意味を持たせていくか、何時間も語り合って一日を過ごしました。これは私たちにとって大事な問題でした。というのも、ちょうどそのころクィア理論が日本の学術出版においてちょっとした流行になりかけており、しかもこれがアクティヴィストコミュニティからもクィアコミュニティからさえも、ほぼ完全に孤立して起こっていたからです。和子さんは、その当時筑波大学で教鞭をとっており、クィア理論とそのフェミニストルーツに精通していただけでなく、アカーの友人や私と同じように、それを生命線のようなもの、つまり抵抗の一様式であり文化的運動の一形態だと考えていた日本の数少ない学者の一人でした。だから、私たちが自分たちのクィア理論の日本語訳を出版し始めたとき、彼女がときどき私たちの研究会に来るようになり、そのうち手伝ってくれるようになって喜んでいました。[iv]彼女はすでに熟達した翻訳者で、1995年にトリン・T・ミンハの『女・ネイティヴ・他者――ポストコロニアリズムとフェミニズム』の翻訳を出版したばかりでした。1999年には、ジュディス・バトラーによる『ジェンダー・トラブル』の非の打ちどころのない翻訳を出版し、その後も2002年にバトラーの『アンティゴネ―の主張』、2004年に『触発する言葉』、2008年にはバトラーとスピヴァクの『国歌を歌うのは誰か?』を含めた多数の重要な翻訳を立て続けに上梓することになります。




[i]竹村和子『文学力の挑戦――ファミリー・欲望・テロリズム』研究社、2012年。

[ii]竹村は「危機的状況の中で文学とフェミニズムを研究する意味」の中でバトラーの仕事との邂逅を述べている。『研究する意味』小森陽一、東京図書、2003年、138‐63頁。「バトラーは、私が求めていたもの、ずっともやもやしていて、研究の場に引き出せないと思っていた事柄を、明確に分節化してくれました。『ジェンダー・トラブル』は難解だとよく言われますが、むしろスリリングな書物で、私は興奮して読みました。」145頁。

[iii]「訳者後書き」『ジェンダー・トラブル』青土社、1997年。

[iv]この仕事の集大成は、『レズビアン・ゲイ・スタディーズ』というタイトルの学術書『現代思想』の特別号でした。その号には、竹村さんのバイセクシュアルに関する論文が掲載されています。竹村和子著「忘却/取り込みの戦略――バイセクシュアリティ序説」『現代思想』臨時増刊号、第25‐26号、青土社、1997年5月、248‐56頁を参照のこと。








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

タグ: / ジェンダー / 竹村和子 / クィア / セクシュアリティ研究