エッセイ

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「国際法を「他者」の眼から見る~竹村和子フェミニズム基金からいただいた励まし 近江美保

2013.10.04 Fri

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.竹村和子フェミニズム基金から出版助成をいただいて、6月に『貿易自由化と女性~世界貿易機関(WTO)システムに関するフェミニスト分析』を刊行することができました。

本書は、2010年7月、神奈川大学法学研究科に提出した博士論文に加筆修正したものですが、出版のための加筆修正をしながら、竹村さんのご著書『フェミニズム』の「女は、普遍ではない『特殊』、主体になりえない『他者』、生によってしるしづけられている存在だとみなされる。

女はその特殊な性であることが強調されて、『ジェンダー化された存在』と解釈されるのである。」(19頁)という部分を何度も思い出していました。貿易自由化の中の女性も、まさに女であるがために、システムの主体にはなりえないとされながら、ある時は利用され、ある時は無視されているからです。

 「貿易自由化と女性」というテーマは、私たちの身近なところで行われている国際的な経済活動をフェミニズムを通して見直してみたいということから選んだものです。私たちは、多くの輸入品に囲まれて生活し、いわゆる開発途上国で生産されたモノは労働力が安いために安価であるということを、当然のこととして受けとめています。そして、どこの国でも安い労働力として利用されているのは、やはり女性です。

また、労働力のみならず、貿易自由化が及ぼす様々な経済的、社会的変化がジェンダーの作用によって、男性とは違う影響を女性に及ぼしていることが、フェミニスト経済学によって明らかにされてきました。

それでは、私が専門とする国際法は貿易自由化に関してどんな役割を果たしてきたのか。国際法というのは、国際人権法や人道法を除けば、ほとんどジェンダーには無関心な分野であり、ましてや貿易を扱う国際経済法は、ジェンダーや女性と最も遠いところにあると考えられてきました。貿易を扱う国際機構であるWTO(世界貿易機関)でも、ジェンダーへの取り組みはほとんどなされていません。

 国際経済法におけるジェンダーへの無関心の理由は、ひとつは、市場や経済的グローバリゼーションというものは自律的に動いているという思い込みに、もうひとつは、国際経済法と女性の人権を扱う国際人権法とを両立させるのは、結局はそれらを締結している個々の国家にあるのだという国際法の国家中心主義にあると考えられます。

しかも、主権国家からなる国際社会には、互いのドメスティック(国内的)な事情や他国が締結した条約の内容には、口を出さないという暗黙のルールが存在しています。ここでも、やはり女性や女性的なものは「他者」であり「特殊」な存在として、国際法システムの枠外に置かれています。こうした国際法システムを経済や国家一辺倒ではないシステムに作り変えていくためには、当然とされてきたことに疑問を呈し、状況を解きほぐして理解し、フェミニスト分析が有効であるというのが本書の趣旨です。

学部学生時代の米国留学で出会い、その後もNGO活動や女性センター職員という仕事を通じてかかわり続けてきた女性学やフェミニズムというものを、自分なりに勉強しなおして整理すること、これまでに出会った南の女性たちと私の日常生活の間に横たわる経済的な格差について、自分はどう理解するのかという課題に取り組むことも、実は、この論文を書くことの目的でした。「貿易自由化と女性」というテーマに関しては、私の力不足で、本書を書くことでようやくスタート地点にたどりついたというところかと思っていますが、その過程で、実に多彩なフェミニスト研究者の足跡に触れられたことは、本当に心躍る楽しい経験でした。

直接ご指導いただく機会には恵まれませんでしたが、尊敬の念とともにお仕事を拝見していた竹村さんが設立された基金から出版を助成していただいたことは、研究者として遅いスタートを切った私への何よりの励ましでした。このかけがえのないプレゼントを胸に、今後も研究を続けていきたいと考えています。








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

タグ: / フェミニズム / 女性学 / ジェンダー研究 / 国際経済法