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物語を紡いでいくことは・・・ あかたけ

2014.05.04 Sun

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.前回のタキコさんのエッセイを読んで、少し考え込んだ。自殺を考えるとき、たとえば、<自殺したいと思う人>と<自殺したいと思う人に近しい人>がいて、さらに<自殺 したいと思う人と知り合いの人>がいて・・・と輪を描くように関係性が広がっていく。自殺をめぐる人間関係の行き場のない苦しみは、わたし自身の経験においてさえ、いまだ 心の整理がついていないことを改めて感じた。

 「当事者のリアル」の追体験は、語られるものがあるからこそ可能になる。しかし、誰を当事者として、どんなリアルを追体験するのか。聞き手の当事者設定によって、得られる語りと、紡ぎ出され、追体験されるリアルは異なってくる。たとえば、<自殺したいと 思う人>の語りと、<自殺したいと思う人に近しい人>の語りは、どちらも当事者に設定 されうるが、一つの自殺をめぐって、全く別々の物語を生むのではないだろうか。
ここでは、当事者と物語をめぐる話について、少し挙げてみたい。音楽、科学、スポーツなどなど、特に今年に入っての数ヶ月は、多くの人が各界のさまざまな物語に踊り、 「踊らされた」と言い、今度は別の新たな物語を作り上げている印象だ。そこにはすで に、当事者と呼べる人がいるのかどうかさえよくわからない。とにかく、わたしも含め、 皆、物語が好きなのだと思う。


 そんな中、タイムリーな映画が公開された。湊かなえ原作の『白ゆき姫殺人事件』だ。とある美人OLが殺害され、その犯人として地味なOLが浮上した。同僚、同級生、親族、 近隣住民などが証言し、彼女の人物像がワイドショーやツイッターで作り上げられてい く。しかし、本当の彼女を知っていて、本当に彼女のことを思って証言する者はいるのだ ろうか。いたとしても、それを正確に伝える術はあるのだろうか。憶測が憶測を呼び、憶 測が実像のように見える虚像となって、一つの物語がメディアを通して伝播する。これは フィクションなのだが、すでに過去にも何度も起こってきたことであろう。そして、もし かしたら、明日は我が身なのだ。それにしても、恐ろしい映画を観てしまったと思う。

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 がらりと変わって、岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』。これも映画化された作品 だが、マンガのほうの絵がすごくかわいくて、決して楽しいばかりの作品ではないけれ ど、大切にしたい一冊となった。作者(ペコロス)とその母で認知症のみつえをめぐる話 だ。認知症が進んでいく母は、作者にとって、おそらく母が母でなくなっていくようにみ えたのではないかと思う。けれども、作者は、戸惑いながらも目の前の母を、母個人とし て接しようとしているように思えた。脈絡がないように思える言動を、わけがわからない とするのではなく、母の体験や記憶、習慣と絡めて理解しようとし、母が歩んできた歴史 をたどっていく。意味不明に見える言動をどのように受け止め、理解していくか。目の前 にいる人の感情や記憶、歴史をどう読み取り、どのように接していくか。一般的な「症状」としての解釈ではなく、対話し、その人個人の歴史や物語をふまえて理解する姿勢が、自分にどれほどあるだろう。

 昨年亡くなった祖母を思い出す。子や孫、ひ孫に恵まれ、ちょっといい老人ホームに入 り、認知症もなく、何不自由ない老後を送った祖母だったと親族は話す。遠方で暮らしていたわたしは年に1回会うくらいだったので、あまり祖母のことを知らない。けれど、祖 母の話を家族や親族から聞かされる度、本当の祖母の気持ちを知りたくなる。もう、直接知ることはできないのだけれど。

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ここで、あわせて思い出されるのが、六車由美『驚きの介護民俗学』だ。民俗学者であ る著者は、大学教員を辞め、老人ホームで働いているという。民俗学の聞き書きの実践をもとに、老人ホームでの利用者との対話が進められていく。その作業は、認知症の人の記 録ではなく、個人史の記録あるいは物語となっていく。時に閉塞感漂うアカデミズムの外 に広がる(広げるべき)民俗学の可能性は、たぶん大きい。

 わたし自身、この春から十数年ぶりに、故郷で両親との生活を再び始めた。ほんの十年 ちょっとでも、両親との間に生じたライフスタイルや価値観のズレは、想像以上に大きい。わたしが思春期の頃よりも老い、あの頃感じていたよりも小さく見える両親に対し、 わたしはどれだけ彼らを理解しようとし、対話しようとしているだろうか。父と母の歴史 と物語を、わたしはどのように紡いでいけるのだろう。反省と展望もこめて、ゆっくりと二度目の同居生活を始めていきたいと思う。








カテゴリー:リレー・エッセイ

タグ: / 女とアート / 当事者 / 物語