2014.07.04 Fri
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.NHK「あまちゃん」の母役や、昭和のホームドラマを彷彿とさせる「最後から二番目の恋」の主演など、今でも第一線で活躍しているキョンキョンこと小泉今日子のエッセイである。
彼女はアイドルとして登場したけれども、いつだってとんがった異色のアイドルだった。
はかなげで、おとなしく、おじさんや青年の庇護欲を誘うアイドルでなく、自己肯定感が強く、挑発的で確信犯のアイドル。
かの有名な「なんてたってアイドル」は「もてて、きゃーきゃー騒がれたい。アイドルはやめられない」という、少女の本音を歌った秀逸なセルフパロディであるし、規定された女性性のコードを無視するかのように、カリアゲやパンクなミニスカート、かぶりのものなど奇抜なファッションに次々と挑戦し、かっこ悪さとかっこよさとのぎりぎりの境界線に落とし込むバランス感覚は他に並ぶものがない。
それらはもちろんプロデュースする側の匙加減なのだけど、タレントさんというものは、期待された役割を超えて地力が見えてしまう恐ろしい仕事であり、小泉今日子自身の胆力がなければ完成されない類の、そんな魅力を持った人だと思う。
彼女は身体感覚の人である。
お湯に触れる喜び、ジェットコースターに乗った時の内臓の位置、はしゃぐこと、よろこぶこと、ガンつけていきがること、原宿の裏道の友達のお店にひょっこり遊びに行くこと、飲んだくれること。
すべてことばの前に、感覚が彼女に到達する。そして、その後で、言葉が彼女を、記憶を探し当てる。言葉が追いつくまでのその一瞬の時差、エアポケットのような真空の隙間が、小泉今日子の文章に独特の空気感とやるせなさを与えている。
彼女は他者と関わることを恐れない。自分を知るために、他者が必要だとよく知っている。他人の数だけ自分がいて、そのことに抗うでもなく、揺れるわけでもなく、ゆっくりと見つめている。それもすべて、私と。
しかし、彼女は時におうちの裏庭に引きこもる。現実的な意味でも、比喩的な意味でも。
結婚をし離婚をし、40を迎える直前のキョンキョンは「少女心をぴかぴかに磨いてあげたい」と言い、猫を育て、裏庭で土をいじり、水飛沫を眺めている。それがきっと小泉今日子の、小泉今日子たるゆえんなのだと思う。
少女性とは、無心の喜びと言ってもいい。
花を絞って色水を作ったり、ビー玉に光が乱れて散る様子を眺めたり、蜂の羽音に聞き惚れ、木漏れ日の斑な影を目で追うような、意味も目的もない、純然たる高揚感。
そこに、他者、特に、異性の影はささない。そこで心を遊ばせているのは、親や兄弟や級友から・・・それは小さな最初の社会である・・・女性性を付与される前の、何物にも定義されない、純然たる個である。
その時に感じる喜びは、自分と世界との秘密の契約である。恐怖と不可解に満ちた茫洋とした外界は、ひそやかな喜びを通じて、自分の味方となる。
そこで感じる外界は、言語や性や力で分断される前の、全体的で原始的なエネルギーの源泉である。
“裏庭”で過ごす時間をどれほど持てるか、それが、その後戦いの前線へと出ていく少女たちの生涯の糧となる。
小泉今日子の本を読むと、遊び、楽しみ、つながれ、少女達、と声が聞こえる。 (kakura)
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