2011.10.21 Fri
「新女性学講座」の「新」に込められた意味とは何だろうか?
新女性学講座『女性たちの現在(いま) 「女(わたし)と「女/母(わたし)」の間』は、連続4回の2日間集中講座である。第一話 『ウーマンリブの母性神話崩し』、第二話 『「女の時代」の母たちの「自分探し」』、第三話 『「母・娘問題」が映し出す自立不全の世代連鎖』、 第四話 『「女・女格差」と女性のマルチキャリアパス・モデル』というテーマを追いながら、アラサー、アラフォーやおひとりさま、大人かわいいなど、「女(わたし)」をあらわす言葉をキーワードに、男女共同参画社会はどこへ向かうのか、その中で女性たちの存在はどこにあるのかを探る。
一日目は、資料「戦後60年 日本社会の女性の現在を確認する見取り図」をもとに、各時代に発生したキーワードで、社会状況と女性を取り巻くさまざま問題を取り上げて、戦後から現在までの流れを追った。
戦後復興から高度成長へと社会が急激に動いた1950年代は、父、母、子ども2~3人という形態の「55年体制家族」という家族モデルができあがり、「男は外で働き、女は家を守る」中で専業主婦規範が作られた。憲法で男女平等が定められても、日本型性別役割分業という形で家父長制は残った。1970年代、ウーマンリブから女性学運動へと「女の時代」がやってくる。しかし、自立をもとめながらも主婦たちは家庭からトラバーユしきれず、その夢を自分の娘に期待する。そのような母と娘の関係を『母・娘のナラティブー愛着と分離のはざまでー』(河野貴代美著)を読みながらひも解く。1980年代、1990年代には、女性に関わるさまざまな問題が社会問題と認識され、法や制度が整備されていく中で、ひきこもり、非正規雇用、女女格差、ワーキングプアという新たな問題が発生し、ジェンダーの再配置が起きている。さらに「やおい」化する現代の若い女性たちを取り上げて、二次創作表現の中で、見られる性から見る性への変貌に、金井氏は「女の性的欲望が“やおい”の中に垣間見られるのではないか」と説く。
二日目は、受講生から問われた「母性」とフェミニズムの関係について、議論を交わすことから始まった。「母性」を切り離すことで女性の自立を求めてきたフェミニズムに、金井氏は、なぜあえて「母」を立てるのか。結論は講義を進める中でそれぞれが出すこととし、講義は続いた。
新自由主義やグルーバル経済社会において、男女共同参画がどのように進んでいくのか、「女性のキャリア・パス・モデル」をキーワードに、女性研究者支援政策を事例に挙げながら、その危険性を説く。かつての高度成長時代、女性は安易な調整弁として労働力を求められた。そして、今、日本型雇用柔軟政策において、女性研究者が専門的な能力を持つ労働力でありながら、「雇用柔軟型」の働き方を受け入れやすい労働力として「専門能力活用型」のターゲットになっている、と指摘する。女性が求めてきた自立が果たして、国や企業の動きと同じ方向を向いているのかというのが、金井氏の問題視しているところであろう。
最後は、キーワードから読み取れる分析をもとに、現在の女性と男性の位置関係に焦点をあてる。押し上げられ上昇する女性たちがいる一方で、満足な職も得られない女性との格差は拡大している。男性もまた日本型終身雇用が崩れ、非正規・フリーターと押し下げられる男性が出現し、その格差も広がっている。男性優位・女性劣位という非対象な構図から、男女の性差だけでなく、さまざまな要因が絡み合い、複雑に格差が再生産されていく現在の構図がある。
ところで、なぜ金井氏は女性をめぐる時代のキーワードに着目するのか。金井氏は「言葉が獲得されたときに社会問題化する」と言う。DVやセクハラなど、言葉を手にしたことで、自分の問題が社会構造の中で起こるべくして起こったことだと認識できたことは多い。一つひとつは個人をあらわす言葉であるが、「個人の問題は社会の問題である」とすれば、「女(わたし)」を表す言葉からその時代に横たわる社会問題が見えてくるはずである。
そして、金井氏が投げかけるのが、「女(わたし)」の自立を求めた女性たちの娘世代の存在である。リブ、フェミニズムの時代から40年。当時を生きた女性たちの娘世代が今、同じ年齢に達している。果たしてフェミニズムは、次世代につなげていくことができているのか。「女/母(わたし)」と女にあえて「母」を立てた金井氏の問題提起はそこにあるのではないか。
ふんだんな資料と文献を使用した講座は、まるで大学の講義のようだった。フェミニスト哲学の第一人者と言われる金井淑子氏の、時折挿入される「自分語り」に氏の人間らしさを垣間見ることもでき、この2日間は実に贅沢な時間だった。
カテゴリー:参画プラネット
タグ:DV・性暴力・ハラスメント / 女性学 / 男女共同参画