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マイケル・ジャクソン再発見  本間久江(米・シアトル在住)

2009.08.31 Mon

 マイケル・ジャクソンが急逝した。

 私が渡米した頃から一世を風靡した歌手だから思い出があって、なにやら同時代人をなくした寂しさをおぼえた。いまはコンピューターで好きなビデオがみられるので、いろいろ検索して「追悼」していたら面白いものにぶつかった。

 95年にでたビデオで、ブラジルのスラムを背景に歌っているThey don’t care about us(俺たちなんかどうでもいいんだ)である。音楽を楽しむとき私は歌詞をきこうとする努力をしない。人畜無害なイメージとダンサブルな音楽で人気を博したマイケルが、なぜスラムを背景にしたのか気になって、はじめて歌詞を検索してみた。紙面が足りないので英文の歌詞をここに引用できないのが残念だが、この歌は驚いたことにスーパースターがそんなにストレートにいっちゃっていいの?というような過激なプロテストソングだったのだ。 「袋だたきにされようが憎悪されようが俺をかえることはできない」「警察の暴力の犠牲になるのはもうたくさんだ。俺の誇りをこれ以上奪わないでくれ」「黒人の同胞はみな牢獄のなか」「無視すれば存在しないも同然なのか。俺の権利はどうしてくれる。自由を保証されたはずなのに汚辱にまみれて生きるのはもうたくさんだ」とつづき、「これが自分の生まれた国だなんて信じられない」という、今を生きる無数の若者の心の琴線に(そして体制側の怒りに)ふれそうな一行まで含まれているのだ。

 おまけにこの歌にはもうひとつ、刑務所のなかで囚人たちが「俺たちなんかどうでもいいんだ」と怒りの拳をあげるという、異例も異例、超過激なビデオが存在した。マイケル自身が囚人服をきて化粧顔で腰をふるという奇妙さはさておき、私自身の記憶にも鮮明に残る警察のロドニー・キング暴行事件やクー・クラックス・クラン、ベトナム戦争やキング牧師の映像もでてきて目をみはらされる。監督は「マルコムX」のスパイク・リーだそうで、なるほどと納得がいく。一瞬だが暴虐の場面が次々とでて、「政府は見てみぬふり」などとはっきりいうものだから、当然発禁になる国もでて、その結果外国親善訪問版みたいなブラジル編ができたらしい。

 背景には児童虐待の嫌疑をかけられて、恥辱を経験した彼自身の怒りも当然あったろう。しかし彼は88年に、すでに社会的なメッセージをこめたA Man in the Mirrorを発表しており、自分の影響力を大きい目的に役立てたいと思っていたことがわかる。だが影響力のある人物がまっとうなことをいうと、ただではすまないのは過去にも例がある。彼のような繊細な男なら頭のおかしいファンに狙撃させなくても、精神的に追いつめるだけで事足りるだろう。そして実際その通りになったのだ。

 差別の象徴としてあえてユダヤ人への蔑称を歌詞に使ったことを逆手にとられて、ニューヨーク・タイムズにユダヤ人差別だと非難する記事がのり、マイケルは謝罪するとともに歌詞を改変するはめになった。そしてこの歌はヨーロッパでは21週間ベスト5に入って大ヒットしたにもかかわらず、アメリカ本国ではラジオ局に敬遠されて低迷。このストレスと2度目の児童虐待告訴事件でマイケルのキャリアと健康は以後下降線をたどる。

 表側だけみると黒人であることを自己否定したようにみえるマイケルだが、Black & Whiteという歌でも、カラフルで楽しい映像に先鋭的な歌詞をのせているし、A Man in the Mirrorでは、人間の悲惨と無知狭量、偉大さについて考えさせる映像をバックに、自分をかえることから始めようと含蓄のある歌詞で呼びかけている。マービン・ゲイも耳に心地よい旋律にのせて反戦を歌ったWhat’s going onをヒットさせたが、あれは大人の歌だった。マイケルは世界中の子供の舌に「黒も白も関係ない」「世界をより良い場所に」という言葉をのせたのだ。

 ここちよい気分でこれらの歌をくちずさみながら育った世代は、マイケルが育った世代とは世界観が深層のところで違うだろう。人間は頭からなかなか変われない。情感から入る意識変革の面で、マイケル・ジャクソンが残した功績は案外大きいのではないかと彼を見直したのだった。

(『女性情報』8月号、「WORLD REPORT」より転載)

タグ:音楽 / アート / 本間久江