2015.11.05 Thu
編集部から:世界にはたくさんのすぐれた女性作曲家が存在していたのに、これまでほとんど知られてきませんでした。ハンガリー在住のピアノ演奏家石本裕子さんが、彼女たちの生涯を紹介しながらその作品をみずから演奏する、新しい連載を始めます。どうぞお楽しみください。
第1回 ファニー・メンデルスゾーン – ヘンゼル(Fanny Mendelsshon-Hensel)
1805年ドイツ・ハンブルグ生まれ、今からちょうど210年前のことです。そして逝去は1847年。言わずと知れた作曲家フェリックス・メンデルスゾーンは ファニーの4歳年下の弟、ふたり姉弟でした。幼少のみぎりから非凡な才能を開花させた弟フェリックスは、音楽愛好家の父親の庇護のもと、その才能をいかんなく発揮します。
今日の主役、姉・ファニー。後世の研究で、その弟より才能があったのではないか?と言われるほどの才能を持ちながら、そこは19世紀初期のヨーロッパ。父から娘への手紙には以下の文が記されています。
『音楽は弟フェリックスにとっては職業になりえるが、女であるファニーには生活や存在の基盤になりえない。従って自己の才能を示そうなどという野心を決して持たないように』(1820年7月16日付、父から14歳のファニーへ)
父親の暗黙のメッセージ「弟をサポートして生きるのだよ」という環境下、ファニーは無意識的にも意識的にも抑圧を強いられた中で音楽と関わり続けました。
歴史を紐解けば、当時は依然として続くナポレオン戦争の時代。1813年は連合国 (プロセイン・ロシア帝国・オーストリア=ハプスブルグ帝国・イギリス・スウェーデン)とナポレオンが ライプチッヒを舞台にいわゆる諸国民戦争の只中で、ナポレオンは1814年、圧倒的な力の差に敗北を喫し、退位したという時代背景です。
メンデルスゾーン家は富豪のユダヤ人一家でした。父方は高名な哲学者の祖父、母方は作曲家J.Sバッハ家の息子のパトロンをするほどの裕福な家系。母は語学に堪能な上に知的な側面を持つ人でしたし、父親も兄の設立した銀行の銀行家で、ここは当時のドイツを代表する銀行の一つ、成功した人生を歩んでいた人でした。
平たい言葉で言えば、潤沢な資金とそれに伴う知性を併せ持った教育熱心な家族の下、勧められるままに、思いのままに、ピアノや理論、そして語学も、質の高い教師たちに師事しました。姉も弟も欲しいものは何でも手に入る環境の上に、世間が認めるだけの真の意味での才能や実力がある恵まれた人たちでした。
メンデルスゾーン家はその財力で、広大な敷地内に何百人もを収容できる音楽サロンすら持っていました。そこのサロンコンサートでは姉と弟の曲がたびたび演奏されました。後年はファニーがサロンを取り仕切り、曲の選定から演奏から、いわば音楽監督業を立派に務め、お客さんには、華麗な人脈――音楽家ロベルト・シューマン夫妻、作曲家パガニーニやリスト、詩人のゲーテ、ハイネなど錚々たる顔ぶれが集まりました。表現する場が与えられない女性が多かった時代に、ファニーの豊かな環境は、才能をいかんなく発揮する大きな助けとなったのです。
弟フェリックスのピアノ曲「無言歌集」はことに知られていますが、この曲集を最初に提案したのはファニーだったとされています。歌詞のない歌・・・有名な「春のうた」をはじめ「ベニスのゴンドラのうた」「乗馬」など、叙情的な聴き心地の良い曲が48曲で構成された曲集です。また、この中の何曲かは、実は姉ファニーの作曲だったとも言われています。筆者も、改めて両者の作品の数々に触れることで、姉弟の作風がとても似ていると感じたのは確かなことです。
また、イギリス王室、当時のヴィクトリア女王は弟フェリックスの歌曲「イタリア」を殊の外お気に入りで、褐見の際に賛辞を与えましたが、それに対するフェリックスの答えは「実はあの曲は姉が作ったものなんです」。弟の姉に対するご都合主義には、なんとも言葉がないですね。
1829年、ファニーは結婚しました。24歳の時です。お相手は長くメンデルスゾーン家のサロンに出入りしていた画家のヘンゼル氏です。これより、ファニー・ヘンゼルとなりました。
父親は長いこと、この結婚を反対していました。メンデルスゾーン家ほどの大家ならば、画家という不安定な職業より、貴族や財界人・・・彼女の出目にふさわしいお相手はいくらでもいるだろうと考えました。しかしながら彼女は彼を選び、彼の誠実な人柄を知るにつけ、結婚に懐疑的で、ファニーへの手紙は自分を通して書くようヘンゼル氏に強制していた母親も、そして最後は父親も、ふたりの結婚を許す運びとなりました。
結婚後は、今までの抑圧から堰を切ったかのように音楽活動に励みます。彼女の才能を高く買って全幅の応援をしてくれる伴侶ヘンゼル氏の存在が何より大きかったのです。それまでは、自身の名前を隠し、弟の名前でしか出版されなかった自作が、いよいよ彼女の名前で出版にこぎつけました。これほどの喜びがあろうか!と想像に難くありません。
1835年、父親のアブラハムが亡くなりました。ファニー、このとき30歳。もちろん実父の死に深い悲しみはありましたが、同時に、それまで彼女を抑圧し続けてきた大きな存在がいなくなることへの解放感もありました。
1839年、夫ヘンゼル氏の創作活動を目的として、息子と伴に訪れたイタリアに長く滞在しました。ヘンゼル氏はもとより、ファニーがイタリアで受けた影響は計り知れないものとなりました。とりわけ、作曲家のグノーとの出会いは彼女の人生のハイライトとなりました。グノーは彼女の才能を大いに認め、それは、ありのままの才能を受け入れる気持ちや自信を持つことに繋がりました。夫の援護も大きな後ろ盾ではありますが、同じ音楽家で尊敬するグノーのことばは大きな自信につながったことは想像に難くありません。
帰国後は「12ヶ月」「6つの歌曲・作品1」「混成4部合唱曲・作品3」「ピアノ小品集・作品4~6」などを作曲し、立て続けに出版され、すべてが好評を得ました。ドイツの伝統ある楽譜出版社ヘンレをはじめ、彼女の作品集は作曲者名を「FANNY HENSEL」として、旧姓メンルスゾンーンを外した楽譜が出版されていることも特記するべきことかと思います。
しかしながら弟フェリックスは、当初姉の自作の姉の名前による出版に反対でした。この辺りは、ファニーの失望を見て取れる手紙が残っています。この側面には、当時のユダヤ教やプロテスタントの女性規範を下に、父親や弟の反対があったとも言われています。オトコ優先社会の下、女性は名前さえも隠さなくてはいけなかったのか。そして、女性を受容する基盤のない社会では、コンクールの応募も、自分を隠し男性の名前にするなど、女性の人権のなさ、抑圧の時代は、当然のごとくその後も長く長く続きます。
ファニーは富と名声を欲しいままにしたメンデルスゾーン家の「かごの鳥」。それがファニーの長い間の姿でした。イギリスの批評家はこう書いています。「富と名声の一家に生まれなければ、ファニーはクララ・シューマンやプレイエル夫人のように、当代切っての一流ピアニスト・作曲家として世界をまたにかけていたであろう」
そして、ファニーは41歳の若さで病のためこの世を去ります。この後を追うこと僅か6ヶ月、弟も病気でこの世を去りました。仲が良かった証ですね、少なくとも、弟にとって姉は絶対必要な存在だったのですね。
作品は、このほかに「ピアノ3重奏作品11」(ピアノ、バイオリン、チェロの合奏)「ピアノソナタ」「ピアノ4手のための連弾」などがあります。
ここでは、ピアノソロ作品「ノクターン ト短調」をお聴きいただきます。ヘンレ版の注訳ーAutographにある手書きの付記によれば、作曲は1838年10月15日、父親を亡くして3年、イタリアへ渡る前の年の作品です。メランコリックではかなげな美しさ、その反面、激しさを伴う大胆さも感じさせます。「無言歌集」の明らかにわかりやすい表現に比べて、音楽的表現がけっして易しくない作品でした。併せて お楽しみいただけますなら幸いに存じます。
付記:この連載では、女性作曲家のそれぞれの人生を読み込んでおりますが、それは必ず、世界中の男性優位社会とリンクしていることに、最初は驚き呆れ、しかし、考えてみれば自明の理でした。いずれは住まいのハンガリー・他の東欧・邦人女性作曲家も交え、各作曲家の人生と作品をご披露させていただきます。
なお、本年12月27日(日)に東京でコンサートを開きます。詳細については、WANイベント欄の12月をご参照ください。
カテゴリー:陽の当たらなかった女性作曲家たち / 連続エッセイ