エッセイ

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【特集・装うことから考える・その1】ミス・ユニバースのナショナル・コスチュームに思う   小山 有子

2009.12.10 Thu

 さる12月5日に、2010年ミス・ユニバース・ジャパン(MUJ)のファイナリスト15名が決定した。残念ながら、2010年MUJの候補者の詳細や、誰がMUJに選ばれるのかには、わたしはあまり興味がない。しかし、2010年のMUJが、ナショナル・コスチュームとして何をどのように着るだろうかということには、大いに注目している。

 2009年のMUJのナショナル・コスチュームは物議をかもしたので、覚えておられる方は多いと思う。黒い牛革製の振袖長着(と呼んでいいものかどうか)に、フューシャ・ピンク(蛍光ピンク)のボディスーツ、同色のガーターベルトにタイツスタイルであった。着物の丈が帯の下10~15センチほどであったことから、ピンクのボディスーツが裾からはっきりと見えていた。要するに長着の丈が本来のお端折り部分ほどの長さしかなかったため、下に着ていたボディスーツがまるで下着(ショーツ)のように見えていたのだった。 この衣裳が一般に披露された2009年7月22日から、批判や抗議がMUJ事務局に殺到したというが、それが特に興味深かった。曰く「下品」、「いやらしい」、「娼婦」のようで「日本が誤解される」。

 個人的には、いわゆる「日本」の「着物」らしくないと言えば、そうだろうと思う。わたし自身は特に新鮮な驚きは持たなかったが(十数年前に読んでいた少年向け漫画の登場人物の衣裳と、今回のそれがよく似ていたから)。挑発的なデザインと言う意味では、2~3年前のMUJナショナル・コスチュームだった甲冑を模した衣裳の方が、よほど非難を浴びてもおかしくないように思えたことも事実であった。

 結果的にこの衣裳は、バハマでの本選で着用された時には丈を長くし、事なきを得たようだったが、コンテストの成績はこの騒動をはね飛ばすにはいたらず、ぱっとしない話で終わった。

 けれども、寄せられた批判を見て、服装が喚起するイメージの強さを改めて感じた。服装の持つイメージによって、人びとの感情が揺さぶられるとき(往々にしてそれは、人びとの持つイメージを裏切り、不快感を呼び起こすような事態になったときであろうが)、服装の問題は衣服単体だけの問題ではなく、社会規範とも強く結びついた批判をすることによって、問題を解決しようとする。

 例えば、ガーターベルトが「娼婦」だという意見などは、その最たるものだろう。ガーターベルト(靴下吊り)は、まだパンティストッキングが発売される前には、多くの女性たちが使用していたものであったはずである。確かに、多くの女性たちが靴下吊りを堂々と見せるようなデザインの服を着ることは少なかったと思うが、靴下吊りを「娼婦」と直結させる感覚には、やはり首をかしげざるを得ない。

 また、着物のデザインや着方は、変わらないようでいて、“ずっと変わらずに変わり続けている”。すでに日常着ではない着物に少々奇妙に思えるデザインが出てきたところで、あまり驚く必要はないだろう。

 夏祭りで多くの若者に着用されるようになった浴衣などは、イベント着として、追いつけないほどの自由さを持っている。ミニの浴衣で腕まくりするスタイリング。足元はゴムのような、プラスティックのようなサンダル。

 夏物だけではない。かつてファッション関係の美術館で受付の仕事をしていた時のことだが、「着物着用ならば入場料無料」にたいして、そのスタイリングを「着物着用」としてよいのかどうか、戸惑うようなお客様を迎えたことがあった。タートルネックのニットに丈をイレギュラーにした着物、足元はピンヒール。こうなると、着物素材を、前空きのワンピースとして着用しているだけであって、感覚的には「着物着用」とは少々違うのではないのかな?とさえ思えてしまったものであった。

 美術館に来たお客様は「日本」を代表したスタイリングをしているわけではないが、MUJの衣裳だけが「日本」を代表しているわけではないだろう。ある特定のプロデューサーの好みによって作り出されるMUJ(ミス・ユニバース・ジャパン)。その彼女の衣裳によって誤解されるかもしれない「日本」とは、一体何なのだろうか。

 人はそれぞれに単体の衣服に何らかのイメージを持ち、それを着用した人を見れば、衣服そのものが持つイメージを、その着用者にまで広げて見てしまう(もっとも、衣服に見出してしまうイメージには、その時の着用者の置かれている立場・社会的地位やそのイメージが、存分に反映されているが)。それが、見る人に好き嫌いの感情を覚えさせることは当然のことだ。その感情はまた、人によっても違う。そのことを認識するのも重要なのではないだろうか。

 衣服・服装にたいして人それぞれが持つイメージは、衣生活を抑圧もするが、豊かにもする。もちろん、人に不快感を与えるためだけに意図される服装というものがあるのなら、それにたいして「わたしはイヤです」と意見を言うことに何ら異議はない。しかし、自分の持っているイメージだけで着用者にたいする不快感を表すことには、なぜ自分がそう思うのか、その原因は何なのかと思いめぐらす時間があってもいいのではないだろうか。

 一方、2010年のMUJは何を着るのだろう。何を着るにしても、MUJが自分の衣裳にたいして、プロデューサーの“お仕着せ”ではない「自分らしさ」を出せたら――それはビューティー・コンペティションに必要なものらしいが――、それはその女性にとって、本当にステキなことだとわたしは思う。

カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:ファッション / 小山有子