2010.03.20 Sat
満開の桜というものを見たことがない。 ああこれはきれいに咲いていると思うそばから、はらはらと花びらが風に舞う。 つぼみは開花へのエネルギーに満ちているが、遠景としてみる桜の木には、いつもどこか散りゆく哀しみが漂う。
そんな春の日の幻にも似た少女がふたり登場する映画がある。
ポーランドの鬼才クシシュトフ・キエシロフスキがフランスで製作した『ふたりのベロニカ』(1991)だ。本作でカンヌ国際映画祭主演女優賞を獲得したイレーヌ・ジャコブが、少女から大人に移ろう時期の女性を、自然体で演じる。
光、星、鏡、指輪、リップクリーム、透明なゴムボールに映ったさかさまの世界―いくつもの小さなオブジェがちりばめられた少女万華鏡的世界を、ベロニカという名の少女の物語がふたつ、縦糸に結ばれ、つながってゆく。
ベロニカ。 原語で綴るとVeronika. true image・・・
けれど私たちがよく知るように、少女に「本当の姿」なんて存在しない。
とらえようとしても、いつも本当のワタシは逃げていく
そんな不安と、だからこそありえる、世界のどこかに「もう一人の私」が存在するのではないかという淡い憧れが、奇跡のように実現する瞬間が見逃せない。ポーランドの街頭でふたりがすれ違う瞬間と、少女がフィルムに映った「もうひとりのわたし」を見つけ涙するシーンは、すべての女性の心をうつだろう。
冒頭、私たちはポーランドのベロニカに出会う。雨の中、濡れることもいとわずひたむきな情熱の限りを音楽に捧げ、歌いながら息絶える少女の姿は、いたましいというよりむしろ崇高だ。到達しえない生の高みに昇りつめる魂の称揚と歌声がぴたり重なる。
ポーランドのベロニカの死の物語は、やがてもう一人の、フランスのベロニカの物語へとつながってゆく。こちらは、死んだ少女の魂に導かれるように音楽をすて、生きることを、愛することを選ぶ。
自己陶酔から他者の発見へ―
死から生へ。
ふたつの物語を結びつける縦糸は、少女としての自分を葬ることによってのみ大人に脱皮できる、「喪失」と「成長」の物語にほかならない。
それにしてもなぜにこう、大人になりゆく風景は孤独な哀しみに包まれているのだろう。少女期の終わりにいるポーランドのベロニカには確かに存在していた、はちきれんばかりの生の歓びが、大人に近づいてゆくフランスのベロニカの物語では、いつしかあきらめの感情にとって代わられてしまう。出会うべき人を求め、愛しあう喜びもいつしかかげりがさして見える。
死んだ少女が死の直前まで歌い続けていた楽曲の調べに耳を傾けたい。その歌詞の意味にも。
わたしのあとを追って小船に乗ってくるあなた、少しだけ先にいくけれど、見失わないように。 でも追いつこうと急がないで―
生きることを選んだ少女はやがてゆっくりと、今ここにあることの幸福になじんでゆくのだろう。喪失の痛みを受け入れながら。そしてそれはけっして不幸なことではないのだろう。生きていくということは結局のところ、そうした時の流れを歩むということなのだから。
桜の木の幻影のごとき本作を、脱少女の季節を迎えたすべての少女たちに贈りたい。
カテゴリー:新作映画評・エッセイ / DVD紹介