エッセイ

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女性専用車両と私   松川絵里

2010.04.11 Sun

 女性専用車両 注)が導入されて7~8年。他の地域ではどうだか知らないが、私が住んでいる関西の京阪神地区では、すっかり定着した感がある。「化粧の匂いがきつい」、「マナがー悪い」などの問題はあるものの、これまで痴漢の存在に怯えていた日々から解放され、安心して電車に乗れるのはありがたいことだ。にもかかわらず、「女性専用車両」の表示を見るたびに、戸惑いを感じる自分がいる。なぜだろう?

 はじめて痴漢に遭ったのは、高校1年生のとき、電車通学を始めて1~2か月たったころだった。はじめは誰かの鞄か何かがあたっているのかなと思った程度で、特に気にもとめなかった。ところが、それが痴漢だと気づいた瞬間、突然ものすごい気持ち悪さが襲ってきた。自分が誰かの性的対象となりうるという驚き、それが自分の意志と全く関係なく、電車に乗るという日常の場面で起こっているということに対する怒りと恐怖。さらに、私にとって最も屈辱的(ショック)だったのは、それが公共の場所だということだった。声をあげられないのは、恐怖のせいだけではない。公衆の面前で性的存在として存在させられることの、あの恥ずかしさと屈辱を避けるためでもある。 つまり、私にとって、痴漢の苦痛(暴力性)は、単に身体に触られるということだけにあるわけではない。それと同時に、あるいはそれ以上に、自分の意に反して性的存在として存在させられてしまうことにある。

 ところで、痴漢から逃れるために女性専用車両に乗ることは、自分が性的対象となりうると表明することでもあるだろう。「私は痴漢に遭うかもしれない、だから女性専用車両に乗るわ」と。たしかに女性専用車両は痴漢から、見知らぬ人に身体を触られるという暴力から、私を守ってくれるだろう。だが、性的存在として存在させられる、という点では、痴漢も女性専用車両も同じではないだろうか。性的存在として存在させられることを避けようとするまさにその行為によって、性的存在として存在してしまうというパラドックス。

 さらに私を戸惑わせるのは、「女性専用車両に乗るか否か」という選択そのものの存在だ。一般車両を選べば、痴漢に遭うリスク、すなわち私の意志に関係なく性的存在として存在させられてしまうかもしれないというリスク。女性専用車両を選べば、性的対象となることを避けようとするまさにその行為によって、性的存在として存在してしまうというパラドックス。そして、女性専用車両に乗ろうが乗るまいが、痴漢に遭おうが遭うまいが、「女性専用車両」という表示をみた瞬間、「あなたは女性専用車両に乗りますか?」という問いかけを受け取った瞬間、私は否応なく「女性として」存在させられてしまう。以前は必ずしも(偶然的にしか)性的な意味をもたなかったはずの場所で。

 こうして「私は女性である」ということが、私のうちに刻み込まれてゆく。

 そのことに少なからぬ戸惑いを感じながら、あたかも「空いてるからこの車両にしよう」とでもいうふうに、あるいは「女性専用車両」の表示に気づかぬふりをしながら、今後も私は女性専用車両に乗ったり乗らなかったりするだろう。

注)
 ここでの考察は、2009年7月8日、京阪なにわ橋駅構内のオープンスペース「アートエリアB1」で開催された哲学カフェでの議論がきっかけとなっている。ただし、その議論の内容を反映したものではない。哲学カフェでは「女性専用車両は差別か?」というテーマのもと、「差別とは何か?」「車両に乗る人を分けるとはどういうことか?」といった論点について考えた。その際にでた「女性は女性専用車両か普通車両かを選べるけど、男性は選べない」という意見に刺激され、ここでは「選ぶ」ということについて考えてみた。哲学カフェについては、カフェフィロHP(http://www.cafephilo.jp/)
を参照。

カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:DV・性暴力・ハラスメント / 男女平等 / 松川絵里

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