2010.05.23 Sun
題名通り、強烈な映画である。チンピラと女子高生の恋、などと簡単には言えない。息もできないほどに苦しいのは、ふたりが恋―それを恋というならば―を知る以前。それぞれの家族との関係から生じた苦しみなのである。
ヤン・イクチュン監督は、この映画を自ら製作・脚本・主演で撮らずにはいられなかった動機を、「自分の抱える両親との間のもどかしさをすべて吐き出さねば、前へ進めなかったから」と述べている。フィクションではあるが、画面からその火のような思いが圧倒的な力で迫ってくる。 サンフン(ヤン)は、32歳。仕事は、年長の友人の経営する債権回収業の下で借金取り立てからストライキ潰し、また屋台の強制撤去など、とにかく手加減ない暴力で他人から忌み嫌われている。
子供の頃から父親のDVを見て育った。母も妹も、父の暴力の犠牲になって死に、いま、刑務所帰りの老いた父親を殴り続けずにいられない。
女子高生ヨニ(キム・コッビ)は、ベトナム戦争の復員兵である父親と高校生の弟ヨンジェの3人暮らし。父親は、戦争の後遺症で心身障害となり、家計を担っていた妻が亡くなったことも分からない。母親は幼いヨニの目の前で屋台の強制撤去騒ぎの中で死んだ。弟は、毎日姉に金をせびり、父親と喧嘩し、家の中で暴れる。ヨニは悲惨な家庭を何とか持ちこたえようと必死である。遊ぶ暇などない。
こんなふたりの出会いは―。学校帰りのヨニは、すれ違ったサンフンが歩きながら吐いた唾が、自分の胸元にかかったのできつく抗議する。口論になるが、気の強いヨニは一歩も引かず、サンフンはヨニを殴り倒す。失神から目覚めたヨニをなぜかサンフンが見守っていた。ヨニはサンフンにビールをおごらせる。年は離れているが、互いに孤独な一匹狼同士。なぜか通じるものを感じるふたり。
だが、それぞれの家族の状況はますます厳しい。
サンフンの父親は、家にいて仕事もせずに朝から酒瓶を抱えたまま。「それでも、親はいるだけいいぞ」と社長に言われて余計に逆上するサンフン。唯一可愛がっている幼い甥までが、祖父に味方してサンフンに白い目を向けるに至り、また殴るしかないのだ。
女を殴る男は許さない。が、女もなぜ反撃しない?―この真っ当な気持ちを、サンフンは男も女も殴ることでしか表現できない。言葉を発すれば怒号になる。これまで暴力や罵倒しか表現方法を学ぶ機会がなかったのだ。親は何していた? サンフンらの親世代は、ベトナム戦争(1965-75年)に派兵されたり、その後の韓国の高度経済成長下に、家族は二の次で“金を稼ぐ機械”のようにこき使われ、心身ともにぼろぼろにされてきたのではなかったか。その実例がサンフンやヨニの父親だ。そして、成長したわが子に復讐の鉄拳を食らう、という救われない悪循環。自分らも犠牲者なのに、だれに文句も言えず家族間で犠牲と償いを求め合うしかすべを知らない底辺の庶民たち。サンフンの孤独は、その悲しさ、怒りを暴力でしか表現できず、その空回りの虚しさ、やりきれなさが孤独なサンフンを追い詰めていく…。
ある夜、ついにサンフンはヨニの膝の上に頭を預け、初めて涙を流す。涙は嗚咽となって留めることができない。ヨニも一緒に泣きだした。理由を聞くわけでもなく、ただサンフンの頭を抱えて、一緒に涙を流し続ける。遠くにネオンがまたたく夜の漢江の岸辺で、ふたりは初めて裸の心を確かめ合う。殺伐たる画面の続くこの作品で、キスひとつないが、初めて魂の触れあう美しいラブシーンである。やっと息ができたふたり。だが、それもつかの間…。
へえ~、韓国って大変なんだね。じゃない。日本だって、他人事ではない。ただ、監督が自らを素材に書き演じ演出した、こんなに激しく痛ましくたくましい青春像のリアル。それを、ただ青春映画にとどめずに韓国社会の在り方として、若い世代の目で真正面から問いかけるヤン監督の真摯なまなざしに圧倒される。そこに韓国映画の底力を感じずにはいられない。
甘くなんかない結末の救いは、少女ヨニの逞しさだ。サンフンの面影を胸に、すっくと大地を踏みしめて、肺活量一杯に息をしながら生きてゆくであろう姿が、見終わった後にまで強烈にイメージに残る。
韓国でも、最後に頼りになるのはやはり女性、なのだろうか。
{注}写真は、「息もできない」の1場面
(「女性情報」2010年3月号初出)
カテゴリー:新作映画評・エッセイ
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