2010.08.10 Tue
― ねえちゃん、花いらんか?
先日、駐輪場から家に向かう途中おばあちゃんが豪快に声をかけてきました。見れば、団地の前に植わっていた紫陽花がざくざくっと剪定され、近くには新聞にくるまった小さなブーケがたくさんあります。
― よーさんあんねん。1つやるわ。持っていき。
おばあちゃんは歯が少なくなっていて、何を言っているのかなかなか聞き取れません。それでも、勢いで状況を分からしめるパワーをもっている方でした。その方は同じ階段に住んでいるのですが、このとき初めて面と向かって会話をしました。私が引っ越してきて1年と半年が過ぎていました。相手の反応を恐れずガガガっと自分の話をしまくるあの感じ、いいなー。でも、いざ自分がそういう発言をするかというと、おそらく否で、気が引けるし、やっかいに感じていたりもするんですよね。
なんだろう。うっかり「下手なこと」を言ってはいけないという感覚が強くあるからかもしれません。
ところで、先日、束芋の「断面の世代」という展示会に行ってきました。
団地をテーマにした、ある作品にはこんな説明文がありました。
「・・・団地はいくつかの棟から成り、それぞれの棟は多くの住居を抱え込む。そしてそれぞれの住居にはそれぞれの生活があり、現代社会では隣り合う部屋同士でもまったく交わらない人生が存在することもある。」
「塊の中に在りながら、個の尊重を重視し、尊重の表現として無関心を装う。・・・」
そうなんです。
無関心は尊重の意を表す側面もありますよね。みだりにプライバシーを詮索してはいけないわっていう気遣い。だから、無関心のフリをする。その気遣いとめんどくささが相まって、いつからか「自分から話しかけ、相手に関する何がしかの情報を聞きだす」ということをしなくなりました。
むむ。でもこれは前回書いた、保護者との関係作りの悩みともつながっている課題ではないのか。
「地域」だとか「コミュニティ」という冠をつけた取り組みが新聞で紹介されていたり、何かのキャッチコピーとして使われているのを時々目にすると、現代っ子の(とはいえ、昭和生まれですけども)私は何か魅力的なものを期待してしまいます。ですが、無関心を装うことになれてしまった他者との関係作りを変化させなければならない、大変にめんどくさそうなしろもののようにも思えてきました。
そんなめんどくさそうで、気が引けてしまうような「ご近所さんの会話」をさらりとやってのける、ある種の強さをまぶしく感じているのも真実なのですが。
ご近所さん、その響きとは裏腹になんという未知の存在なのでしょう。
*おまけ*
束芋「断面の世代」 国立国際美術館 (~9/12)
映像インスタレーションが中心の展示会は従来の「鑑賞」する美術から「体験」する美術へとなっていました。その独特の鑑賞方法はアミューズメント性が高くおもしらかったので、オススメです!
【HPより】「断面の世代」とは、「団塊の世代」に対比させて、束芋自身が自らの世代を呼称するために創案した言葉。アニメーションを用いた作品で束芋がテーマとしたのは、集合住宅である団地を舞台に主婦の周辺におこる日常であり、それも現代日本社会が抱える病巣のような問題に冷静な視線を送り、強烈な「毒」を込めながら作品化しました。
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