エッセイ

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ハナ通信―韓国滞在記②  宇都宮めぐみ

2010.08.30 Mon

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by連合ニュース:http://www.yonhapnews.co.kr/

景福宮を歩いて

2010年8月15日。朝鮮半島は65回目の「光復節」を迎えました。それは、1910年8月29日からの35年にわたる日本による植民地支配から、解放された日です。その日は朝から式典があるだろうなと思いつつ(と言ってインターネットで調べるということもせず・・・詰めが甘いです)、9時半頃にテレビのスイッチを入れた私の目に飛び込んできたのは、完成した光化門(カンファムン)とその扁額除幕の瞬間でした。

光化門――それは、ソウルに位置する朝鮮王朝の宮殿の一つ・景福宮(キョンボックン)の正門です。景福宮は、朝鮮王朝の王宮として1395年に創建され、途中に移都をはさむも、1412年から文禄の役(1592年)で焼失するまで、王宮の位置を占めていた宮殿です。

その後、長らく放置されていたそうですが、朝鮮王朝第26代の高宗即位後、1865年から再建工事が始まり、1868年に竣工したのち、日本の影響力を避けて高宗が1896年にロシア公館に移るまで、王宮が置かれていました。韓国併合後、1896年以降廃宮となっていましたが、その間に建造物の多くが撤去され、1915年には「総督府施政五周年記念物産会」が開催、王宮という、権威あり「聖」なる力をもっていたはずの場所が、博覧会の会場となりました。

やがて、1926年には光化門と勤政門(クンジョンムン)の間の広い空間に朝鮮総督府庁舎が建てられ、庁舎の面前に位置していた光化門も、1927年には敷地の北東へと移動されました。そのまま、1945年の解放(終戦)を迎えますが、1951年には朝鮮戦争により、光化門も焼失することとなります。

その後、1968年に、景福宮の正門としての場所に光化門が復元された後、2000年代にかけて様々な建物が復元されますが、1996年には、70年にわたり景福宮敷地前方にそびえ立っていた総督府庁舎が、ようやく撤去されます(ちなみにこの総督府庁舎は、1980年代からは国立中央博物館として利用されていました)。そして2006年からは、光化門を、高宗が再建した当時の姿・場所に復元しようという工事が始まり、その完成・序幕が、今年の8月15日だったのです。

どうしてこのような歴史を振り返るかというと、景福宮は――もちろん他の宮殿もですが――、朝鮮王朝の遺産というだけではなく、近代から現代の重要な歴史の舞台となった場所であるからです。私の持っている韓国のガイドブックには、「李朝時代にタイムスリップ」できる場として、景福宮を含むソウルの「五大古宮」が紹介されています。音声ガイドに沿って進むと2時間を費やす美しく雄大な「古宮」景福宮。もちろんそれを満喫するだけでも素晴らしい体験になるのですが、私にはどうしてもそれだけでは物足りない気がするのです。

前回もお話した通り、私が初めて韓国を訪れたのは2001年なので、私は、景福宮にそびえ立つ旧朝鮮総督府庁舎を直接この目で見たことはありません。なので、景福宮と言えば、朝鮮王朝の栄華を思わせる、とても美しく雄大な多くの建物と自然に出会える場として記憶していたのですが、初めて旧朝鮮総督府庁舎を含む景福宮の写真を目にした時には、大きな衝撃を受けました。

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左上に見える青い屋根の建物は、大統領官邸である青瓦台

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by SIGONGMEDIA:http://www.sigongmedia.co.kr/

多くの建物が撤去されたとは言え、勤政門や勤政殿(クンジョンジョン)などは残されていたはずですが、そのような宮をまったく隠してしまい、その存在を想像することすらできないほど大きな建物が、光化門の後ろにそびえ立っていたことが分かります。これが、1996年までの景福宮の姿でした。

この10年ほど、韓流ドラマなどによって韓国の文化に触れた日本の人々が、数多く韓国を訪れているようですが、そのほとんどは、1996年までの景福宮の姿を知らないまま、景福宮を見ていることでしょう。朝鮮半島のどの場所もそうだと思いますが、景福宮は紛れも無く、植民地期の記憶を残し、それを象徴する場所なのです。

私がはじめて景福宮を訪れたのが正確にいつだったか記憶がないのですが、私が訪れた時にはいつも光化門は工事中で、興礼門(フンイェムン)からしか入ることができなかったので、2006年以降なのだと思われます。ですが、今回光化門が完成し、光化門から景福宮の敷地内へと入ることができるようになり、改めて、総督府庁舎が置かれていた場所の広さを体感することができました。(かつては興礼門も撤去され、光化門と勤礼門の間の空間に、総督府庁舎が位置していました)

美しく雄大な朝鮮王朝の記憶と植民地期の記憶――堂々たる光化門が完成した現在の景福宮では、もう植民地期の面影を残すものは少なくなったことと思います。そして、韓国の人々にとっては、植民地期の記憶ではなく、朝鮮王朝の記憶をそこに留めることこそが重要であるということも、想像に難くないでしょう。ですが、景福宮を歩く時、光化門から世宗大路(セジョンデロ)を臨む時、ここでかつて日本が何をしてしまったのかということに思いを馳せてみる瞬間も必要だと、私は思います。

2週間前の8月15日、私はお昼過ぎに光化門を訪れました。写真1でも見られるように、光化門前の広場には特設ステージが設けられ、午前中は「光復節」の式典が行われていたわけですが、私が着いた時には、ステージでは伝統音楽が演奏されていました。通常、光化門前から南に伸びている世宗大路は、間に水場と自然を配した広場を置きながらも、片側六車線車が行き交うとても交通量の多い道路なのですが、この日は歩行者天国になっていました。

光化門前にも多くの人が集まり、皆写真を撮ったり、門をくぐって景福宮内に入ってみたり、そのまま景福宮を散策してみたりと、様々に過ごしていました。

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著者撮影、2010年8月15日

光化門には三つの扉(出入り口)がありますが、午前中の序幕式典のクライマックスは、その朱色の扉を開き、李明博大統領を先頭に真ん中の入り口から景福宮へと足を踏み入れるというものでした。8月15日当日は、真ん中の扉も自由に行き来できるようになっていましたが、後日再度訪れてみると、真ん中の扉だけは通り抜けができないようになっていました。

光化門から景福宮へ、景福宮から光化門を通って世宗大路へ。朝鮮王朝の歴史と近代の歴史が交錯し、共存するこの場所。宮廷ドラマに胸をときめかせる人のみならず、今ソウルで最も注目すべき観光地一つだと言えるでしょう。

最後に余談ですが、時間がある場合は、ぜひ音声ガイドをかりて散策してみて下さい。所要時間は2時間と長いですが、最新式(だと私は思います。一緒に散策した母と、「これはどういう仕組みでこうなっているのか?」とひとしきり盛り上がりました。)の音声ガイド機械が、一つ一つの建物や場所を丁寧に分かりやすく説明してくれ、景福宮の魅力を十二分に楽しむことができます。

著者撮影、2010年8月27日。真ん中の扉から興礼門を望む

著者撮影、2010年8月27日。真ん中の扉から興礼門を望む

著者撮影、2010年8月27日。真ん中の扉から、世宗大路を望む

著者撮影、2010年8月27日。真ん中の扉から、世宗大路を望む

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著者撮影、2010年8月27日

カテゴリー:ハナ通信

タグ:韓国 / 宇都宮めぐみ